鐙摺城址

(あぶずりじょうし)

小さな山に込められた歴史

源頼朝にゆかりの深い葉山の鐙摺城址(鐙摺山)は、旗立山とか軍見山とも呼ばれます。それぞれの名には歴史が込められており、海岸沿いの潮風に心地よくふかれながら、この小さな山に豊かな歴史を感じます。

鐙摺城址、鐙摺山山頂。小さな平場になっています。

鐙摺城址、鐙摺山山頂。小さな平場になっています。

エリア逗子・葉山
住 所神奈川県三浦郡葉山町堀内
アクセスJR「逗子駅」もしくは京急「新逗子駅」下車、徒歩1分

Loading
地図の中心へ
交通状況
自転車で行く
乗換
現在地
Google Mapsルートを検索

国道134を下り、逗子の渚橋を右折して少し進むと日影茶屋がみえます。その対面に高さおよそ25メートルくらいの小山があり、これが鐙摺城址(旗立山、軍見山)です。山頂はほんの小さな公園くらいの平場になっており、物見所といった風情です。国道134を挟んで反対側の山も含めて造営したのでしょうか。

鐙摺城址へは日影茶屋の駐車場脇から登ります。山頂からは逗子、鎌倉の海岸沿いを見渡し、遠く江ノ島や富士山をのぞみます。歴史散策をしていると、普段は気にならない眼下の葉山マリーナのヨットが妙に不自然にみえてきます。

小さな山にこめられた3つの歴史

鐙摺城址
1177年(治承元年)、未だ伊豆配流の身であった挙兵前の源頼朝が三浦を訪れた際、ここ鐙摺にあった三浦大介義明の三男、太多和三郎義久の別館を訪れました。「鐙摺山」という名称は、小山に城を造る計画を話し、義久が頼朝を案内したときに道が狭く巌に頼朝の鐙が摺れたことから、頼朝が鐙摺山と名づけたそうです。

旗立山
1180年(治承4年)8月、挙兵した頼朝のもとに参じるため、三浦一族300騎は鐙摺城址の北側にある小浜から出向しますが、河川の氾濫などで間に合わず、その間に頼朝は石橋山の合戦に敗れてしまいます。三浦一族の軍勢は引き返しますが、帰路、由比ヶ浜のあたりで畠山重忠の軍勢と小競り合いとなりました。その時、三浦一族の軍勢を率いた三浦義澄はこの山に旗を立てて気勢を上げて軍勢を鼓舞したという伝説から旗立山とも呼ばれています。

軍見山
時代は下り戦国初期、北条氏に滅ぼされた三浦一族は再興を果たし三浦道寸を領主として三浦半島に勢力をもっていましたが、今度は後北条の北条早雲に滅ぼされることとなります。その戦いの最中、1512年(永正9年)、北条早雲と戦い小坪の住吉城(住吉城址)から退却する三浦道寸はこの山に登って物見したといいます。この話から軍見山といわれるようになりました。

さらなるサイドストーリー

伊東祐親入道供養塚
山頂の平場には葉山町指定史跡になっている「伊東祐親入道供養塚」があります。『曾我物語』に「伊東祐親入道は三浦の鐙摺というところで首をはねられた」とあることに由来しています。塚は石を重ねた簡素なものであり、それがまた趣きあります。

伊東祐親入道は伊豆の豪族。源頼朝の伊豆配流時代、北条とともに世話をした伊豆の名族でもあります。祐親には4人の娘があり、この内3女と頼朝が通じ合い男子が生まれ千鶴御前と名付けた。大番勤のため祐親は京都におり、伊豆に帰ったのは千鶴御前が3歳になった時でした。

この事を知った祐親は激怒し、千鶴御前を殺してしまいます。さらに3女をむりやり北条義時に嫁がせてしまいました。その上頼朝を夜討にしようとしましたが、これは失敗に終わります。

平氏が倒れ、源氏の時代となると源頼朝にこのような不信を働いた伊東祐親が許されるわけもなく、生け捕りにされ祐親の長女が嫁いた三浦義澄に預けられたのち、鐙摺において首をはねられました。

源頼朝の愛妾、亀の前
「鐙摺」というところは源頼朝と縁の深い場所です。頼朝は愛妾、亀の前を小坪飯島にある伏見冠者広綱の家に住まわせていました。1182年(寿永元年)11月10日、頼朝の御台所であった政子は北条ゆかりの牧宗親に命じて広綱館を壊させたため、広綱は亀の前を鐙摺にある大多和義久の屋敷に逃しました。そのためその後、頼朝は度々義久の屋敷を訪れ遊宴を催したといいます。

「逗子駅」もしくは「新逗子駅」からバスに乗り、鐙摺バス停を降りたら国道134の反対側に小さな浜がみえています。三浦一族300騎が船出した小浜の名残ですから、ここで少し腰を下ろして往時を偲んでから、鐙摺城址に向かってははどうでしょうか。筆者もこの小さくて静かな海岸が好きでよく休憩します。

鐙摺城址フォトギャラリー

スポンサー広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です