八雲神社(常盤)

(やくもじんじゃ)

常盤の鎮守

鎌倉に4つある八雲神社の一つ。常盤は平安後期から梶原景時の治めた地域です。

エリア深沢
住 所神奈川県鎌倉市常盤534
創 建1177年〜1181年(治承年間)
祭 神素盞嗚命(すさのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)
アクセス「鎌倉駅」(西口)下車、徒歩1分の「鎌倉市役所前」より京急バス(鎌50、51)、「八雲神社前」下車、すぐ

常盤の八雲神社と大木。

常盤の八雲神社と大木。

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名将梶原景時の治める領地の守護として建立

平安時代後期、この地は源頼朝の鎌倉創成に多大な貢献を果たし梶原景時が治めていました。八雲神社はちょうど源頼朝の挙兵、治承・寿永の乱の頃に創建されました。また、伝説としてこのような起こりも由緒とされています。「昔、梶原にあった加護社のご祭神が大雨で流された。それを見つけた農民が山に祀り麦飯を供えたのが起こりというものである。参拝の時、“常盤の天王麦天王竹の子ひしゃくで水かけろ”と唱えるしきたりがあるのはこの伝説による」
慶長年間(1596年〜1617年)、この村の矢澤与左衛門光広が熊野社を勧請して八雲神社に合祀しました。明治時代になり、御嶽神社、諏訪神社の両社も合祀されたそうです。

祇園信仰の八雲神社

鎌倉には4つの八雲神社があります。全国にある八雲神社とは牛頭天王(ごずてんのう)、須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ)などを祭神とする祇園信仰の神社のことを指し、八坂神社、祇園神社、天王神社、須賀神社などの名称のついた神社は、同じ祇園信仰の神社です。

大木が目印

鎌倉市役所前の道をまっすぐ藤沢方面に進むと「八雲神社前」交差点にぶつかります。その少し手前に八雲神社があります。槇だと思うのですが、周囲を圧倒する大木がありますからすぐにわかります。徒歩の場合は、鎌倉駅裏駅(西口)を出てから約2.2km、30分程度です。バスを利用される場合は、鎌倉市役所前から乗り「八雲神社前」で下車してすぐです。

梶原氏の系譜

梶原氏の系譜は諸説があります。代表的なものは桓武平氏良文流である鎌倉氏の支流であるという説です。本家である鎌倉氏には相武国造の子孫であるという説もあり、そうなると梶原氏もその系譜ということになります。
国造(くにのみやつこ)とは7世紀頃に成立した古代日本の地方を治めた役人のことです。相武国造(さがむのくにのみやつこ)は相模国東部(相模川流域、現在の神奈川県中央部)を支配していました。

判官贔屓の割りを食った梶原景時

梶原景季の父、梶原景時は源頼朝の最も重用した側近の一人です。平氏討伐軍では源義経の軍に奉行(目付役)として加わり義経の勝手な振る舞いを頼朝に報告したことから、「義経を貶めた悪役」として格好の標的となり、源頼朝とともに判官贔屓などという安易な見方の犠牲になっている感があります。さらに、讒言をもって結城朝光を貶めようとして幕府の有力御家人66人により糾弾され、追放・追討されたと鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に記録されており、日本を代表する悪役といった役割になってしまっています。同書にはさらに「2代にわたる将軍の寵愛をかさに傍若無人な振る舞いをし、多年の悪行が遂に身を滅ぼした」というような記述もあります。
しかし、『吾妻鏡』は北条執権政治の時代につくられたものです。九条兼実の日記『玉葉』をみると、景時が追放された原因は、将軍源頼家に対して、実朝を担ごうとする陰謀があると報告したためと書かれています。この数年後には北条氏自身が頼家を追放し実朝を将軍にたてるわけですから、『吾妻鏡』の記述を鵜呑みにはできません。
さらに、源義経は源頼朝のグランドデザインを理解できずに、朝廷に取り込まれるという「鎌倉」創成にあたって最もやってはいけないことをしていますから、一方的に景時が悪役というのは安易すぎます。そもそも、源頼朝による鎌倉創成に景時の果たした役割は大変大きいことは事実であり、義経の美化された物語の方がよほど眉唾です。

八雲神社(常盤)フォトギャラリー

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