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奥州合戦

 この頃の頼朝は源氏の元に集権した日本中の武家による「鎌倉」という武威の都を創出するというグランドデザインを明確に描いていたと想像します。そのための仕上げともいうべき最後の大仕事が奥州藤原氏を倒すことでした。さすがに後白河法皇は頼朝の怖さに気がついていたのか、義経誅殺の直後「弓を収めるように」と頼朝に伝えてきました。頼朝は朝廷に対し藤原泰衝追討の宣旨を再三に渡って強く要求しますが、朝廷はこれを何とか阻止しようとなかなか宣旨を出しません。

 一応の筋をとおした頼朝は義経の首が6月に鎌倉の腰越に届いた後、わずか1か月で奥州に向かって出陣。頼朝の奥州征伐軍は3手にわかれ、東海道を千葉常胤・八田知家、北陸道を比企能員・宇佐美実政、中路より大手軍を頼朝自身が率い、先陣は名将畠山重忠が務めました。そもそも罪人のまま反乱軍としてでも大勢力を形勢した頼朝ですから、必要とあらば朝廷との宣旨の駆け引きなどに最後までつき合わずとも奥州を平らげる力がありました。平らげてしまえば恩賞を沙汰して影響力を残したい朝廷は追認するだろうという判断は当然あったでしょう。

 この奥州征伐には、鎌倉を源氏の拠点とした源頼義による前九年の役(1051-1062)を再現するという大きな意味がありました。源頼義の流れをくむ頼朝の血統こそが河内源氏の正統であり、かつ源氏全体の棟梁としての血筋であるという絶対の共通認識を御家人たちが強く持つことが必要でした。これがあってこそ朝廷の権謀術数に優れた「君威」に呑まれない武家独自の矜持が生まれ鎌倉は武力の集まりから強大な武威の王国「鎌倉」へと昇華するのです。

 鎌倉の大軍は次々と拠点を落とし、要所要所にて頼義の武勇と吉例にならい戦は進められました。9月6日、鎌倉出陣から2か月足らずで泰衝を討ち取ります。河田次郎が泰衝の首を陣岡の頼朝の元へと持参すると、前九年の役において頼義が安倍貞任の首を横山経兼が処置した故事に則り経兼の曽孫時広に命じて同じようにさせました。9月9日には7月19日付の奥州討伐の宣旨及び院宣が頼朝の元に届き、戦後処理の後9月28日には鎌倉への帰路に着きます。

 朝廷は御家人たちへの権威を保持する恩賞の沙汰をおこないたいため、頼朝が奥州を平定すると泰衝征伐の恩賞は行われるべきであると再三に渡り院宣を出しますが頼朝は重ねて辞退します。こういった駆け引きは京都と鎌倉の間で幾度となく行われますが頼朝はまったく隙をみせません。朝廷を無視するという技まで使える頼朝は、朝廷にとってこれまで権謀術数によって翻弄させることのできた武士たちとは異質の存在でした。戦後処理も落ち着いた12月になると頼朝は永福寺の造営に取りかかります。挙兵から奥州合戦に至る数々の戦に命を落とした数万の怨霊をなぐさめるための発願でした。奥州の大長寿院を模した壮麗な寺院であったといわれています。

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