梅が咲き始めています。

源氏山公園の梅。令和4年(2022年)2月12日。

源氏山公園の梅。令和4年(2022年)2月12日。

目 次

地元鎌倉の幼馴染と、歩こう・飲もう会

天長節の翌日土曜日、地元鎌倉の幼馴染数人で源氏山に集合して、気持ちいい程度にお酒を飲みつつ、ハイキングと散歩を楽しみました。2月とはいえ、天気が良くて日当たりが良いとぽかぽかと暖かく、おでんと熱燗を用意していきましたが、マックとビールで良かったなと思いました。

源氏山では梅が咲いていたので、その下でゴザを敷いて少し飲みながら昼食。参加者は自分も含めて団塊世代の子供ですから、高校などは10クラスくらいあったような年代ですが、皆の通った鎌倉の小学校は3クラス、中学校は4クラスでしたので、誰の名前が出てもたいてい話が通じます。40年以上前からの知り合いで話はだいたい同じような内容になるから、とても気が楽です。それとよく出る話題は、やはりからだに関すること。年取ったなあと思いますが、これはこれでいい感じです。(鎌倉の梅の見どころについては、こちらを「鎌倉の梅の名所」をご覧下さい。)

梅の咲く陽春のほろ酔いは大変心地よく、足取りも軽く源氏山公園を出発、大仏切り通しに入って樹ガーデンに立ち寄ります。昔は材料持ち込みのバーベキューみたいなお店でしたが、今は森の中の喫茶店になっていて、気持ち良い場所です。アイスココアをいただいて少し酔をさまして出発。途中、私設の展望台などに寄りつつ、ハイキングコースから野村総研跡地に入ります。旧鎌地域(ちょっと外れるのかな?)にある最も巨大な廃墟ではないかと思います。

樹ガーデン。まさに森のなかの喫茶店。

樹ガーデン。まさに森のなかの喫茶店。

私設の展望台。

私設の展望台。

野村総研跡地。

野村総研跡地。

野村総研跡地。

野村総研跡地。

野村総研跡地からハイキングコースを抜けて火の見下に出ます。そこから、打越の隧道を抜けて極楽寺に出て、盛華園でビールを飲みながら早めの晩ごはんを食べます。このお店は、中国料理独特の臭みと油っぽさが少なくて食べやすいです。

大仏切通し。この辺りがもっとも切通しらしいところ。

大仏切通し。この辺りがもっとも切通しらしいところ。

大仏切通し。火の見下のやぐら。

大仏切通し。火の見下のやぐら。


極楽寺の盛華園。

極楽寺の盛華園。

たまには江ノ電に乗ってもいいかなあ、などと話しつつ、一応中高年の歩こう会なので長谷まで歩いて、名店「浮(ぶい)」を目指しましたが、やってませんでした。裏道を長谷小路までもどって、鎌倉駅方面へと歩きます。途中、前から気になっていたお店を覗きますが、あまりに気取っている雰囲気を敬遠して、扉を開けただけで退散。そういう店があっても仕方ないけど、鎌倉ってそんな気取る場所でもないんだけどなあ。とは、鎌倉に育ったこの日のメンバーの感想でした。

最後は、これも最近できた良さそうな店へ。こちらはなかなか雰囲気よくて、ゆっくりしました。名前は横文字でよく読めない感じだったので、写真のせておきます。

最後に寄ったお店。屋号がよめません。

最後に寄ったお店。屋号がよめません。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まり、街中にもいくつか関連する看板などが目に付きます。こういうブログをやっているので、感想を聞かれました。「三谷幸喜色が強すぎるとかいわれているけど、どうなの?」とか。確かにそういうところはあって、第一回だけ見てその後は見てません。とはいっても、それが問題だとかは思いません。好きなら見ればいいし、苦手なら見なければいいだけです。

それともう一つ、完全に個人的な好みの問題が。。新垣結衣さんはとても美しくて、いつまでも見ていられますが、すぐにいなくなってしまいます。しかし北条政子役の小池栄子さんはけっこうな頻度でずっと出てくるでしょう。彼女が才能があって努力を惜しまない方であり、だから芸能界で活躍し続けておられるのは十分理解しています。しかし、私的にお顔がくどいというか苦手なので、見続けるのはちょっときついです。小池栄子さんと新垣結衣さんの役が逆だったら見たと思います。小池栄子さんファンの方には申し訳ありません。単なる筆者の好みですからご容赦下さい。

ということで要するに、史実とあっているかどうかは、どちらでもよいように思います。テレビですから、鵜呑みにせず気軽に楽しんで、その後勉強するきっかけになればよいのではないでしょうか。北条義時は、源頼朝と並び、現在の日本に必要なリーダーの一人です。理想のあるリアリスト、北条義時を取り上げたことに意味があると思います。

ただし、源頼朝がどういう人だったかは誤解が多いような気がしますので、少し言っておきます。義経との関係をとりあげて冷徹で貴族的な人物、というような短絡的なイメージがありますが、間違っています。頼朝に近かった公卿の九条兼実は日記『玉葉』で次のように頼朝を評しています。「威勢厳粛にしてその性強烈、成敗分明にして、理非断決す」。慈円は『愚管抄』で、「弓の名手であり、大鹿の角をつかんでねじ伏せた」と述べています。

中国の文献であれば、書いてあることは信用できませんが、これら日本の文献は信用できます。それに、文献にあろうがなかろうが、ちょっと考えればわかります。時代はかわれど同じ日本人です。いくら源氏の棟梁だからといって、御家人たちが冷徹でひ弱なだけの人物に従うわけがありません。

御家人たちは「兵は相武二州」といわれた、日本屈指の武士集団の棟梁たちです。それはそれは信じられないくらいの強面だったでしょう。彼らが居並んだ姿は、今日の我々なら一睨みで震え上がるほどの迫力でしょう。それを従えるのですから、源頼朝は幼名「鬼武者」そのもの、彼ら御家人の上を行く武の人であり、さらに知と血筋を兼ね備えていたに違いありません。

そして、大切な北条義時です。北条義時については、足利尊氏の言葉がすべてを現しています。「なかんづく鎌倉郡は、文治、右幕下(源頼朝)はじめて武館を構え、承久、義時朝臣天下を併呑す。武家においては、尤も吉土と謂うべきか。」足利尊氏による室町幕府樹立宣言「建武式目」の冒頭です。

小池栄子さんを持ってくるということは、北条政子さんを尼将軍などといってステレオタイプに持ち上げるイメージを使って、面白くしようということだと思います。しかし史実をいろいろと見て考えてみると、そういうイメージはあまり持てません。日本は世界でも珍しく古代から女性が活躍する社会ですから、その伝統に則って北条政子さんも活躍されました。とはいっても、神功皇后などと違って、あくまで戦場では戦わず、源頼朝の嫁、北条時政の娘、北条義時の姉としての活躍です。

源頼朝が妾をつくるのを妨害しつつも、頼朝が嫡男頼家の鹿狩りの手柄を政子に伝えた時に「源氏の棟梁としてそんなことはあたりまえだ」と見当違いなことを言ってみたり、やはり、守られた中で強く言う的な感じがします。その辺りが戦後の左翼的な風潮にマッチしたのかもしれません。

承久の乱における熱弁も有名ですが、実態は大江広元と北条義時という天才二人が「義時単騎にても京にむけて即座に出陣する」という恐ろしいほど正確な判断をして、行動に移したことが決定的な勝因でしょう。北条政子や源義経をむやみに持ち上げるのは、感情論や善悪論を中心にしていてあまりよい風潮ではありません。

大河ドラマで北条義時が取り上げられたことをきっかけに、源頼朝を筆頭に北条時政や北条義時、大江広元といったリアリストにこそ学びましょう。そうすれば、現代で言えば、ジョン・ミアシャイマーやエドワード・ルトワックのようなリアリスト・戦略家に興味が進み、世論に良い影響をもたらすような気がするなとか、いろいろ勝手に考えながら地元鎌倉の幼馴染たちとハイキングを楽しみ、気持ちよく酔って早めに帰宅しました。なかなか楽しい一日でした。

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