沙沙貴神社

目 次

沙沙貴神社

ささきじんじゃ

沙沙貴氏と佐々木氏の氏神

源頼朝の配下で活躍した佐々木四兄弟の故郷

沙沙貴神社。

彌彦神社、本殿・拝殿。

エリア滋賀
住 所滋賀県近江八幡市安土町常楽寺一番地
御祭神少彦名神、大彦命、仁徳天皇、宇多天皇、敦実親王
創 建神代
公式HPhttp://sasakijinja.or.jp/htm/information.html

関係地図(沙沙貴神社)

関係地図(沙沙貴神社)

御由緒

沙沙貴と佐々木、古代に始まる神社

沙沙貴神社は滋賀県近江八幡市安土町にある、佐々木源氏の神社として有名です。佐々木源氏発祥の地にあって、古代から現在までその社格を保つ立派な神社です。

始まりは、イザナギとイザナミが天照大神を産むよりも前の神代、少彦名命がこの地に降り立ったのが始まりです。時代は下り古代にこの地を治めた沙沙貴山君(ささきやまのきみ)が始祖である大彦命(おおひこのみこと)をあわせてお祀りしました。

神武天皇が日本をあらためて建国されたのは紀元前660年、弥生時代です。少彦名命はそれよりかなり前、天照大神が産まれるさらに前の時代の人ですから、紀元前10世紀より前の縄文時代ではないでしょうか。少彦名命がこの地に降り立ったことに始まる沙沙貴神社は、縄文時代から続く聖地なのだと思います。鳥居や社殿にも古いものはたくさんあって、それが日本の神々の象徴ではありますが、日本の聖地にはそれ以前からの歴史があります。

その後、この地に根付いた宇多源氏の佐々木氏が融合し、佐々木氏が祖神である宇多天皇、敦実親王をお祭りし、両氏の氏神となりました。仁徳天皇もお祀りされています。沙沙貴山君も佐々木氏も天皇家に繋がる血筋ですから関係はもちろんありますが、具体的なことはわかりませんでした。

佐々木源氏と言えば、源頼朝の挙兵に参加して大活躍した佐々木秀義とその子供たち、定綱経高盛綱高綱の四兄弟が有名です。近江国(滋賀県)は佐々木秀義の4代前の源成瀬が平安時代にこの地に下向してより、佐々木源氏の六角氏が1568年に織田信長に滅ぼされるまで佐々木源氏が支配していました。

六角氏の居城である観音寺城も安土町にあり、織田信長もまた安土城を築きましたから、500年以上にわたってこの地は近江国の中心であったということになります。それ以前、律令制の国府は滋賀県大津市大江にあり、国府跡のすぐ近くには近江国一の宮で日本武尊命(やまとたけるのみこと)をお祀りする建部大社があります。国府跡と沙沙貴神社は比較的近く(40km)にあり、琵琶湖の東南にあるこの地域が長く近江国の中心であったことがわかります。

沙沙貴神社の「沙沙貴」は、大彦命(後述参照)を始祖とする古代の豪族である沙沙貴山君(ささきやまのきみ)に由来しています。沙沙貴山君は平安時代まで沙沙貴神社のある現在の近江八幡市を中心とした蒲生・神崎両郡の大領でした。沙沙貴山君が少彦名命と始祖である大彦命を合わせて祀り、景行天皇が志賀高穴穂宮への遷都に際して大規模な社殿を造営させたのが沙沙貴神社の始まりです。

宇多源氏の源成頼がこの地に下向して土着するようになると、孫の代くらいから佐々木氏を名乗るようになり、沙沙貴山君の子孫である沙沙貴氏と融合していきます。そこで、沙沙貴氏の氏神であった沙沙貴神社に宇多源氏の祖である敦実親王とその父・宇多天皇を新たに合祀し、自らの氏神としました。

沙沙貴氏と佐々木氏は直接同じ血筋ではないようです。ただし、沙沙貴氏の始祖が少彦名命で佐々木氏は宇多天皇に始まります。天皇家は天地開闢で最初に成った神(人)である造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)に繋がっており、少彦名命は高御産巣日神、神産巣日神の子ですから、厳密に言えば同族とも言えます。テレビでタモリさんが土地の名前は土地の記憶、と言っていましたが本当にそうですね。

境内

境内には本殿、拝殿、権殿、呑月(どんけつ)の庭、吉方・恵方社、百華苑などがあります。参拝していると、琵琶湖に近く静かで風光明媚な佐々木庄にありますから、とても空気がよくて心が落ち着きます。筆者の家は滋賀県安土町のあたりにはとても縁があるので、ご先祖様もきっと参拝されたと思います。佐々木源氏である丸亀藩・京極家が再建した本殿・権殿・拝殿などの8棟は指定文化財となっています。

沙沙貴神社

沙沙貴神社

沙沙貴神社。

沙沙貴神社。

沙沙貴神社。拝殿。

沙沙貴神社。拝殿。

権殿には佐々木源氏ゆかりの神様がお祀りされています。東、中央、西に配置され、東の座には乃木希典命・乃木静子命、中央には置目姫命(おきめひめのみこと)、源雅信・秀義・氏頼、西の座には、明治・大正・昭和に戦没された沙沙貴郷(旧蒲生郡)出身者3700余柱となっています。

乃木希典(1849-1912)は、日露戦争などで活躍された大日本帝国陸軍大将です。明治天皇を慕って殉死しました。佐々木秀義の4男、佐々木4兄弟の佐々木高綱の子孫です。源雅信、源秀義については、後述を参照していただくとして、源氏頼は、六角氏頼(1326-1370)のことで、鎌倉時代末期〜室町時代初期の佐々木源氏の当主です。

乃木将軍の言葉が石碑になっていましたので、引用しておきます(読点は筆者の加筆)。
「乃木さんのお言葉私は沙沙貴神社に度々参拝するが、この神社には、私のお祖父さん、その又お祖父さん、まだずっと先のお祖父さんが祭ってある。
この村の方々、皆さんのお父さんやお兄さんは、お宮の祭を盛んにしてくださるので、私は非常に喜んでいる。我々人間は、祖先が本である。その本を忘れてはならぬ。本乱れて末治まるものはない。祖先の大恩を忘れるようではだめである。
是非、祖先をうやまうようにしてほしいと、この爺が言ったと、よく覚えて貰いたい。」

沙沙貴神社。権殿の前にある「乃木さんのお言葉」石碑。

沙沙貴神社。権殿の前にある「乃木さんのお言葉」石碑。

沙沙貴神社。乃木大将。

沙沙貴神社。乃木大将。

本殿の裏側には百華苑という庭があり、様々な植物がきれいに育てられています。参拝した日は次のような植物がありました。他にもあったかと思います。拾えた限りです。
真葛(さねかずら)、夏蝋梅(なつろうばい)、千代萩(せんだいはぎ)、姫空木(ひめうつぎ)、錦木(にしきぎ)、武蔵(むさし)、あぶみ、銀梅花(ぎんばいか)、さつき、不如帰(ほととぎす)、寒葵(かんあおい)、桔梗(ききょう)、二葉葵(ふたばあおい)、ハンカチの木、おがたま。

佐々木源氏の系譜

佐々木源氏は第59代宇多天皇(887-897)の皇子・諸王を祖とする宇多源氏で、その中でも近江源氏と言われます。宇多源氏は、宇多天皇の第8皇子敦実親王(893-967)の3男、雅信王が臣籍降下して源朝臣となり、源雅信となったのが始まりです。

近江源氏は、平安時代中期に近江国蒲生郡佐々木庄に下向した源雅信の孫、源成瀬(976-1003)を始祖としています。成瀬の孫の経方が佐々木を名乗って佐々木経方となりました。経方の孫が源頼朝と共に活躍した佐々木四兄弟の父、佐々木秀義(1112-1184)です。

まとめると、以下の系譜になります。
宇多天皇ー敦実親王ー源雅信ー源扶義ー源成瀬ー佐々木義経ー佐々木経方ー佐々木為俊ー佐々木秀義ー(佐々木四兄弟)佐々木定綱ー佐々木信綱ー〈以降、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏にわかれる〉

佐々木秀義源頼朝の祖父、源為義の娘を娶っており、母は安倍宗任の娘、母方の伯母は藤原秀衡に嫁いでいます。とても力のある武士であったことがわかります。保元の乱、平治の乱、いずれも源義朝に加勢した。平治の乱で義朝が敗れると伯母の縁で藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められて20年に渡り滞在して重国の娘を娶って義清をもうけている。

平治の乱に敗れた源義朝が死に、共に戦った子の源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に配流となり、挙兵するまでが約20年ですから、その間、秀義は近江(滋賀)よりも伊豆半島に近い相模(神奈川)で過ごしていたことになります。

1180年、源頼朝が配流先の伊豆で平家打倒の兵を挙げると、子の定綱経高盛綱高綱頼朝の元に向かわせ、頼朝軍に従わせました。ご存知のように佐々木4兄弟は源頼朝の配下で活躍しました。その功が認められて秀義は本領である近江国蒲生郡佐々木荘を再び安堵され本領へと戻ります。それ以来、佐々木一族は戦国時代に織田信長に追われるまで約400年間、守護職を務め、近江国(滋賀)を支配しました。戦国大名の六角氏も佐々木源氏の直系です。

日本の場合は「神は人なり」(新井白石)であって、御祭神は活躍した先祖たちですから、五柱の神(ご先祖様)「少彦名神、大彦命、仁徳天皇、宇多天皇、敦実親王」を見ながら想像してみれば、いろいろとイメージすることができます。

御祭神

少彦名命

少彦名命(すくなひこなのみこと)は、沙沙貴を開いた沙沙貴山君の先祖です。『古事記』によれば天地開闢で最初に成った三柱の神(造化三神)の一柱である神産巣日神(かみむすひのかみ)の子であり、『日本書紀』によれば造化三神の一柱、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の子です。

少彦名命は神産巣日神の命により大国主神の国造りを援助しました。大国主神は出雲大社にいる神で、素戔嗚命(すさのおのみこと)の六世の孫です。日本は縄文時代に東日本から始まり、その後弥生時代に大和に中心を移しました。大国主神の「国造り」は、縄文時代、東日本からみれば未開の地であった西日本を開拓したということでしょう。

『日本書紀』には次のように書かれています。「大己貴命(おおあなむち=大国主神)と少彦名命は協力して天下(あめのした)を営んだ。この世の人々や家畜のために、病の治療法を定め、鳥獣や昆虫の害を攘(はら)う為に、禁(とど)め厭(はら)う法を定めた。以来人々はみなその恩恵を蒙っている。」
少彦名命が祀られていることから、滋賀県もまた、その国造りで開拓されたということだと想像できます。例えば、越後国一宮の弥彦神社の御祭神、天香山命(あめのかぐやまのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とともに天孫降臨(東日本から西日本へ)された饒速日命(にぎはやひのみこと)の子ですから、その時代に開拓されたということでしょう。

大彦命

大彦命(おおひこのみこと)は、第8代孝元天皇の第1皇子。娘の御間城姫(みまきひめ)は崇神天皇の后ですから、崇神天皇の叔父で義理の父であり、第11代垂仁天皇の外祖父です。第10代崇神天皇の時代、四道将軍として各地に覇権された4人の将軍のうちの一人で、北陸に派遣されました。北陸道に派遣された大彦命と東海に派遣された武渟川別(たけぬなかわわけ)が出会ったのが相津という地、現在の福島県会津です。

沙沙貴神社。崇神天皇が派遣された四道将軍。沙沙貴神社の御祭神である大彦命も四道将軍の一人。

沙沙貴神社。崇神天皇が派遣された四道将軍。沙沙貴神社の御祭神である大彦命も四道将軍の一人。

崇神天皇(開化天皇10年-崇神天皇68年)という重要な天皇が出てきました。西暦では紀元前1世紀とも3世紀とも言われます。北陸道、東海道、山陽道、山陰道に将軍を派遣し(四道将軍)、各地を支配下に置き、戸籍を調査し課役を科すなど、大和朝廷の基盤を整えました。初代神武天皇の事績は記紀(『古事記』『日本書紀』)に詳しく記されていますが、その後第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは欠史八代と言われ、事績がはっきりしません。そして、第10代の崇神天皇事績は詳しく記されています。

神武天皇がいらっしゃって、欠史八代の時代ももちろん万世一系の天皇家による統治が行われていたのが正史です。欠史八代の間は瓊瓊杵尊の系統ではなく、兄弟である饒速日命の系統による王朝があったと考えると自然です。

そして、瓊瓊杵尊の曾孫である神武天皇が日向から東征されて近畿に到着したとき、その饒速日命の系統の勢力と戦うことになったということでしょう。長脛彦などは饒速日命(王朝)の家来だと明言しています。

初代神武天皇と第10代崇神天皇は「始馭天下之天皇/御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)という同じ名を持っています。となると、神武天皇は饒速日命のことで、二代目の神武天皇ともいえるのが崇神天皇だとも思えます。

仁徳天皇

仁徳天皇は第16代天皇、大鷦鷯命(おおさざきのみこと)です。在位は仁徳天皇元年〜同87年(4世紀末〜5世紀)。応神天皇の第四皇子。母は景行天皇の孫、品陀真若王(ほむたまわかおう)の娘、仲姫命(なかつひめのみこと)。

朝鮮半島も統治下に置く大国であった古墳時代の日本を代表する天皇です。国を強くし、民を大事にする治世から聖帝(ひじりのみかど)として敬われています。「民の竈(かまど)から煙があがっていない。民が苦しい生活をしている」として、3年にわたり課税を免除し、自らの宮の修理も行わなかったことは有名です。

大阪府堺市堺区大仙町にある仁徳天皇陵は墳丘長525メートルに及ぶ日本最大の古墳で、世界でも最大級の大きさです。父の応神天皇陵は仁徳天皇陵に次ぐ425メートルの大きさであり、この時代の日本の強大な国力を知ることができます。

宇多天皇

宇多天皇(867-931)は平安時代の第59代天皇(在位887-897)。佐々木源氏に代表される宇多源氏の祖先です。関白藤原基経の死後、摂政関白を置かず、源能有をトップに藤原時平と菅原道真、平季長らの近臣を重用し各種政治改革を行いました。天皇親政を進めた宇多天皇の治世は、理想の治世の一つとして「寛平の治」と言われています。宇多源氏の祖であることは既に述べた通りです。

敦実親王

「あつみしんのう」と読みます。宇多天皇の第8皇子(893-967)。和歌、管弦、蹴鞠などの諸芸に通じた才人であったそうです。敦実親王の3男である雅信が臣籍降下して源朝臣、源雅信となり、宇多源氏が始まりました。

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