三浦義村
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三浦義村
(みうら よしむら ?-1239)
源頼朝挙兵以来の宿老
義澄の嫡男。為通から数えて6代目となる三浦の当主。権謀術数に優れた策略家であったといわれています。母は伊東祐親の娘。
源頼朝挙兵以来の宿老として、三浦一族の長として幕政に重きをなし、侍所所司、評定衆をつとめるなど活躍しました。北条泰時の義父にもあたります。
1213年(建暦3年)に起こった和田合戦では、挙兵した従兄弟の和田義盛と当初は北条氏打倒で結ぶものの、これを裏切り北条義時につきました。
1221年(承久3年)、承久の乱が起こると後鳥羽上皇の近臣として仕えていた弟の三浦胤義からの誘いを相手にせず、幕府軍の大将の一人として東海道を進み後鳥羽上皇軍を圧倒します。
頼朝亡き後、北条義時とともに鎌倉幕府の権力争いをの中心人物であったといえます。源実朝暗殺においては暗殺を実行した公暁をそそのかし、実は義時もろとも葬ろうとしたとも噂されまます。また、梶原景時、畠山重忠、比企能員が滅んだ際にはいずれも討手の側にあり、和田合戦では従兄弟の和田義盛を裏切り北条側につきました。
数多くの有力者が北条時政、義時に滅ぼされる中、義村は彼等と渡り合い、策略を駆使し三浦一族という大勢力を守り抜きました。執権北条泰時の時代にはその義父として、挙兵以来の宿老としてその威勢は最盛期を迎えます。
大倉御所から宇都宮辻子御所での初の正月、1日に泰時が垸飯を献上したのに続いて3日に義村が垸飯を献上していることからも、三浦氏が北条氏に匹敵する大勢力であったことが伺えます。
三浦一族の史跡が多い横須賀市大矢部に三浦義村を祀る近殿神社があります。