青砥藤綱邸跡
目 次
青砥藤綱邸跡
(あおとふじつなやしきあと)
伝説の人物、青砥藤綱の邸跡
鎌倉には青砥藤綱関連の史跡が2か所あります。1つは東勝寺橋、もう1つがこの青砥藤綱邸跡です。
エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市浄明寺5付近(青砥橋側)
アクセス「鎌倉駅」裏駅(西口)下車、徒歩10分。
鎌倉には青砥藤綱関連の史跡が2か所あります。1つは東勝寺橋、もう1つがこの青砥藤綱邸跡です。
鎌倉には青砥藤綱関連の史跡が2か所あります。1つは東勝寺橋、もう1つがこの青砥藤綱邸跡です。
青砥藤綱は鎌倉時代後期の武士。道理を重んじる公明正大、質実剛健な人物。権力の横暴から民を守る名裁き役として文学、歌舞伎、謡曲などに謡われた伝説的人物です。執権北条時頼、時宗、貞時時代の人物であろうといわれています。『太平記』(「青砥左衛門事」(巻35)など)にも登場します。
御家人の領地訴訟を裁いた引付衆として活躍し、家財豊かなでありながら質素な生活を好み、残ったものは常々困窮する人々に与えました。役所でもそんな藤綱の周りは自然と慎み深くなり風紀は行き届いたといいます。
執権北条時頼とある人物が訴訟を争うと、周囲は権威を憚りましたが訴訟を起こしたある人物に道理があると藤綱は時頼を敗訴とし、贈られた謝礼の銭をも返したといいます。
青砥藤綱邸跡は藤綱の名をとった「青砥橋」のすぐ近くにあります。筆者は青砥橋の近くで育ち、子供の頃からよくその名を口にしていました。大人になってこのような逞しい由来を持つものと知り、鎌倉に生まれ育ったことを感謝したものです。
もう1つの藤綱史跡、東勝寺橋にはこのような逸話があります。藤綱が滑川を通っていると銭10文を落としたため銭50文の松明を使って従者に探させました。10文探すのに50文使っては損ではないかといわれた藤綱は、「10文がそのまま失われれば天下は貨幣を失う。50文は自分の損となるが、他人の益となる。合わせて60文の利なのだ」とこたえたそうです。
青砥橋は金沢街道沿いにあり滑川にかかっています。このあたりは鎌倉中心街の喧騒から離れ、とても静かです。青砥橋から望む滑川も穏やかに感じることができます。近くにはバス停「青砥橋」があり、手前のバス停は「浄明寺」、1つ先は「泉水橋」です。浄妙寺、報国寺あたりを巡られるのであれば、報国寺前の信号から400m程金沢街道を下れば右手に青砥橋があります。