東勝寺橋
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東勝寺橋
(とうしょうじばし)
北条一族の最期を見守った東勝寺橋。現在は大正期の美しいアーチ橋として貴重
北条高時らはこの橋を渡って最期の地となった東勝寺へと逃げました。青砥藤綱の故事では舞台となり、そして現在の橋も鎌倉に残る唯一の大正期に造られた美しく貴重なアーチ橋です。周囲の緑と相まって見所多い景観となっています。
エリア大町・小町
住 所小町3-4
神奈川県鎌倉市小町
宝戒寺前のかつて小町大路と呼ばれた道を大町方向に少し歩き、「東勝寺橋」の案内板を左折すると東勝寺橋があります。
鎌倉幕府滅亡の地、東勝寺跡へと至る途中にある東勝寺橋は、関東大震災復興期の大正13年(1924年)に建造されたアーチ構造の橋です。祇園山の麓にあり、樹々に覆われた美しいアーチ型の東勝寺橋と滑川の景観は大変きれいです。
関東大震災復興期に建造されたアーチ橋のほとんどが撤去されてしまいましたので、貴重な存在となっています。
宝戒寺前を大町、材木座、和賀江島を経て小坪へと抜ける道を鎌倉時代には小町大路と呼んでいました。小町大路は見所多く、大町四ツ角までの間だけでも宝戒寺、東勝寺跡、東勝寺橋、北条高時 腹切りやぐら、妙隆寺、日蓮上人辻説法跡、蛭子神社、本覚寺、妙本寺、教恩寺などがあります。
現在の小町大路は細い道を双方向に車が走るので、その点は鬱陶しいのですがわりと静かな道です。友人宅が多かったので子供の頃からよく歩きました。きっと地元の方は車でも徒歩でもよく使うと思います。この道は電柱などで車が対面で通り抜けられない場所がいくつもあり、昔はタクシーが威張った感じで運転していていらいらしたものです(いまは大分改まりました)。
鎌倉時代には現在の上略式鉄筋コンクリートの橋ではありませんでしたが、何らかの橋がかかっていたでしょう。江戸時代の鎌倉絵図にも東勝寺橋が描かれているそうです。そして北条高時と幕府軍の残党はその橋を東勝寺に向かって逃げ、最期を遂げたのです。
東勝寺橋にはもうひとつ伝説があります。歌舞伎の役所ともなるほど公正・剛直、質実剛健
で知られた鎌倉時代後期の武士、青砥藤綱(あおとふじつな)による故事です。
夜に東勝寺橋付近で銭10文を落とした藤綱は、従者に銭50文にて松明(たいまつ)を買わせて探させたそうです。「10文探すのに50文使っていては割にあわない」と言われた藤綱は、こう答えました「10文を失えば天下の貨幣を失う。50文は自分にとって損になっても、他人を益する。合わせて60文の利なのだ」。
北条時宗にも仕え、有力な武士として数々の所領を有していたが、質素倹約を好み最低限度のもの以外すべて生活に困った人々に常に施していた藤綱がいた役所は役人全体の規律がとても改まったといわれています。青砥藤綱の邸跡は浄明寺の青砥橋近くにあります。