大江稲荷

目 次

大江稲荷

(おおえいなり)

伝説的政治家を祀る

鎌倉の東端、十二所の地にある小さな社。政治行政の面から源頼朝を支えた右腕、大江広元を祀っています。

エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市十二所114付近
祭 神大江広元
本 尊不動明王(五大明王)
創 建?
アクセスJR「鎌倉駅」よりパス「十二所」もしくは「十二所神社」バス停下車、徒歩3分

大江稲荷はお稲荷様らしく朱です。

大江稲荷はお稲荷様らしく朱です。

 

想像をかきたてる静けさ、十二所

鎌倉の最も東、現在の横浜市と境を接する十二所は不思議な魅力のある場所です。最近たまに「鎌倉の奥座敷」などという言葉を耳にしますが、そんなちゃらちゃらと浮ついた言葉では言い表せない魅力のある場所です。

鎌倉時代〜江戸時代までは「鎌倉」といえば西は現在の藤沢、東は野島村や称名寺(横浜市金沢区金沢町212-1)あたりまでを範囲としていましたから、その意味では、切通しの内側における最も東側ということになります。

朝比奈切通しを越えれば鎌倉を支えた要港である六浦に通じ、明王院付近からは現在ハイランドとなっている山を越えて逗子池子村へと通じていました。この十二所には、この大江稲荷に祀られる大江広元源頼朝の右腕であった梶原景時といった智将、頼朝挙兵成功の立役者、上総介広常らの有力御家人が屋敷を構えていました。

いまでも静けさを残しており、智将たち、特に怪物的な活躍を伝説に残す政治家、大江広元が屋敷を構えた場所が十二所です。なぜ大江広元は幕府の中心であった大倉や小町、雪ノ下ではなく十二所に住んだのか、単に静けさを好んだのか、北条や三浦の一族とちょっとした距離をとりたかったのかなどと考えるのはとても楽しいことです。

歴史はふかくても何も飾らない、大江稲荷

大江稲荷は鎌倉駅から金沢街道を東へ下り、報国寺浄妙寺を過ぎて、明石橋交差点を左折、明石橋を渡り、しばらく進んだ左手にあります。山に沿って小さな祠があるだけで立派な建物も参道もなく、背後は山があるだけです。この何の飾りもない風情が余計に想像力をかきたてます。山の香りや静けさを感じながら、大江広元という伝説の人物について思い巡らすのです。

山の上には大江広元の墓とされる石塔や出自はわかりませんが小さな祠があります。大江広元の墓源頼朝の墓と隣接した法華堂跡にもありますが、それは江戸時代に子孫を自称した毛利家によって整備されたものです。本来は大江稲荷山上の石塔であるともいわれます。

大江稲荷を満喫するために大江広元を知る

大江稲荷は大江広元(1148-1225)という実在の伝説的人物を祀っています。京都の下級帰属であった広元は兄の中原親能が源頼朝と親しかった縁から、政治行政のプロとして鎌倉入りした頼朝に招かれ、数々の伝説的な活躍をして鎌倉幕府創設に大きく貢献し、初代政所別当を務めました。政治行政の面から頼朝を支えた鎌倉の文官トップといっていい人物です。官位的にも源頼朝に次ぐ正四位下を得ており、その点からは鎌倉ナンバー2といえる立場にありました。

大江広元の手腕が発揮された代表的な場面といえば「守護・地頭の設置を頼朝に献策」「承久の乱の時、即時出兵を強力に主張」です。これがなぜ800年を超えたいまでも語られるのでしょうか。これを知ることが大江稲荷参拝を味わい深くするためには欠かせませんので、長文になりますが「守護・地頭」だけは書くことにします。これがなければ、ちょっと自然のある場所の小さなお稲荷さんというだけですから。

京都の君威と鎌倉の武威、熾烈なせめぎ合い
源頼朝に守護・地頭の設置を献策

平氏の専横に対して以仁王・源頼政が挙兵、全国の源氏勢力に平氏追討の令旨を伝えて以来始まった治承・寿永の乱。簡単に源平対立という構図を思い浮かべてしまいますが、事はそう単純ではありません。

乱が始まった時、頭目と目されていたのは平清盛源頼朝武田信義木曽義仲藤原秀衝、後に源義経、そして君威を操る後白河法皇が別格として存在していました。ご存知の通り最も早く行動し、京都から平氏を追い出して制圧したのは木曽義仲です。

源頼朝は京都から約400km離れた鎌倉を拠点として新しい形を創造していました。甲斐の武田信義は源頼朝と同格に列せられながらも、甲斐源氏内の分裂により源頼朝の御家人となり、藤原秀衡はじっと動かず後に源義経を担ぎます。源義経は叔父の源行家とともに源頼朝に反旗を翻し、討伐されます。

結果的に乱を制したのは鎌倉の源頼朝でした。勝因は様々にありますが、大切な要素の一つとして君威と朝廷を懐柔し制したことが挙げられます。君威という最強の力を背景にして権謀術数に優れた京男たちとの駆け引きは熾烈を極めています。あれほどの力を持った平氏や、京都を制圧した木曽義仲でさえかなわなかった威力です。これに対して源頼朝大江広元を最も頼りとし共に戦ったのではないかと思います。

守護・地頭は1185年(文治元年)11月29日に認められたもの。反乱し逃亡する源義経を捕らえるため、源頼朝が全国に守護・地頭を設置できるようにするというものです。しかし、義経に頼朝に対峙する力のないことは毎白だったでしょう。捕縛は名目であり全国に頼朝が動員できる武力を配置できるという画期的な仕組みでした。そして、これが源頼朝と大江広元の策であったといわれます。

源頼朝の父義朝平清盛や朝廷の勢力争いを制してきた日本一の大天狗、後白河法皇にこのような強大な権力を認めさせた道筋を追うと、頼朝と広元の戦いがみえてきます。

後白河法皇木曽義仲を排除した後、源義経に接近します。鎌倉にどっしりと構える源頼朝を崩すためでしょう。義経が奥州藤原氏と結びついていくことも考えていたでしょう。

源頼朝大江広元がこの事に感づいていないわけがありません。すでに朝廷に取り込まれたとはいえ、河内源氏の当主である頼朝の弟義経を追討するにはしっかりとした名目が必要です。源頼朝と大江広元は、最終的に日本の新しい統治機関としての「鎌倉」創造まで見据えて義経の、そして背後にいる後白河法皇に対して知恵を絞ったことでしょう。

1185年(文治元年)10月9日、源頼朝は義経襲撃の大役を募り唯一土佐坊昌俊が手を挙げます。同月17日に襲撃は挙行され、失敗。一週間程たって土佐坊昌俊は義経方に殺害されます。この襲撃は失敗し義経を追い詰めることが目的でした。土佐坊昌俊自身もわかっていたことであり、それは『吾妻鏡』の文面では明らかです。

襲撃は返り討ちにしたものの、追い詰められた義経は襲撃の翌日(18日)、後白河法皇に詰め寄り「源頼朝追討の院宣」を出させ、挙兵。おそらく、源頼朝と大江広元の見通しどおりとなります。後白河法皇は頼朝追討を命じてしまったのですから。

しかし、義経に従うものはほとんどなく合戦にもなりません。同月29日、源頼朝の大軍が鎌倉を出発すると3日、義経、行家は逃げ出します。きっとこれをみたのでしょう、後白河法皇は今度は手のひらを返したように恥ずかしげもなく「義経、行家追討の院宣」を出します。

頼朝は合戦するまでもなくあっという間に義経・行家の反乱を治め、11月10日、鎌倉につきます。追いかけるように15日、後白河法皇から「頼朝追討の院宣」を出した言い訳の使者(高階泰経の使者)が鎌倉に着きます。これに先立って源頼朝は大江広元の献策により守護・地頭設置の申請を決めていました。

使者がいったことは「頼朝追討の院宣は後白河法皇のお考えではありません。義経が詰め寄るので恐くて一旦出したものです」などというものです。頼朝は概ね以下のようなことをいい、一喝します。

「これは後白河法皇の言葉か? 君の臣下として多数の朝敵を降伏させた。その頼朝に対して追討の院宣を出すとはいかなることか? 院の考えではないだと? 院こそ日本一の大天狗であろう」

この頼朝の一喝はすごい。日本が変わった瞬間ではないでしょうか? いつでも乱世の上にたち武士たちを操ってきた後白河法皇が源頼朝に負けた瞬間とでもいっていいでしょうか。極端な言い方をすれば、この一喝に始まり、北条義時が承久の乱で朝廷を返り討ちにし、足利尊氏は後醍醐天皇から頼朝の「鎌倉」を守り室町幕府を開き、徳川家康は源頼朝を尊敬しつつ江戸幕府300年の太平を築きます。

端折ってしまうと、今の世の中も明治維新、薩長連合新政府軍の続きと考えると、源氏の島津、大江広元の子孫を名乗る毛利の流れですから、よくよく源頼朝という人はすごい人です。そしてそれを支えた大江広元という稀代の智将を思わずにはいられません。

さらに頼朝は、ダメ押しとばかりに北条時政と鎌倉の軍勢を派遣して不満を伝えます。時政率いる軍勢は25日に上洛しました。京男たちはさぞ肝を冷やしたことでしょう。「鎌倉は怒っているぞ」ということです。このあたりの駆け引きには唸ってしまいます。

大江広元と頼朝が膝を突き合わせてじっくりと練ったのではないかと想像します。その場所はもしかしたら、大江稲荷から少し鎌倉駅方面に戻った十二所の明石橋近くにあった大江広元の屋敷だったのではないか? 静かな十二所で密談する、稀代の鬼武者・頼朝と伝説の智将・広元の姿をついつい考えてしまいます。

「あの一喝ではまだぬるいな、広元」と頼朝。
「はいもうひと押しです。京男たちに鎌倉の軍勢を直にみせ、きっちりと型にはめなければいけません」答える広元。「では北条時政にいかせよう」「そうなされませ。鎌倉殿はまだ姿をみせてはいけません。みえない程に朝廷は鎌倉殿を恐れます」。

こんな感じでしょうか? 「でも待てよ、近所に住んでいた梶原景時もいたか?」と考えは尽きません。これこそ鎌倉散歩の醍醐味の一つです。間違いありません。

11月15日に後白河法皇から言い訳の使者がつき、それを一喝。25日には北条時政が京都についています。鎌倉から京都までおおむ1週間〜10日程かかるでしょうから、一喝した後、間髪入れずに北条時政と軍勢を出発させたことになります。そして29日には「守護・地頭の設置」が認められます。全ては源頼朝と大江広元の手中にあったと思えてなりません。

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