光触寺
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光触寺
(こうそくじ)
静寂の十二所に運慶、快慶、湛慶そろい踏みの阿弥陀三尊像
時宗の開祖、一遍上人が開いたといわれるお寺さんです。ゆったりと静かな境内とその周辺は、鎌倉の中でももっとも静かにお参りできる地域です。朝比奈切通しとの組み合わせで静けさと自然を楽しむのもよいと思います。
エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市十二所793
宗 派時宗
本 尊阿弥陀三尊像
創 建1279年
開 基一遍上人
札 所鎌倉三十三観音第7番
文化財等阿弥陀三尊像、(国重文)頬焼阿弥陀縁起(国重文)など
鎌倉の中でももっとも静かな十二所の地にある時宗のお寺さんです。金沢街道を浄妙寺を越えて30分くらい歩いた場所にあります。バスで行くなら、バス停「十二所」で降りればすぐです。ここまでバスできて、金沢街道を鎌倉に戻るルートもよいと思います。街道沿いには光触寺、明王院、浄妙寺、報国寺、杉本寺、鶴岡八幡宮などがあります。
皆で賑やかに散策、というよりも一人ふらりといきたいとても静寂なお寺さんです。休日でも人が少ないので、煩さや人の臭いもなく、心静かに参拝できます。市街地と違い、回りも静かなのがとても落ち着きます。
朝比奈切通しを越えて鎌倉市街と六浦港を繋ぐ、六浦道はかつてのメインストリートでした。六浦から塩を運んでいた商人が光触寺の地蔵様に塩を備えたところ、帰りにはなくなっていたということから「塩嘗地蔵」と名付けられたお地蔵様があります。
本尊の阿弥陀三尊像は、運慶(阿弥陀如来)、快慶(観音菩薩)、湛慶(勢至菩薩)の作と伝わる国の重要文化財です。運慶作の阿弥陀如来は、法師の罪の身代わりとなって頬を焼かれたという伝説から頬焼阿弥陀と言われています。本尊の拝観は予約制になっています(10人以上/300円)。
かつて付近には月輪寺、一心院などがありましたが、ともに廃絶しました。そんな中、1279年の創健から連綿と続く光触寺は貴重な存在です。
先述したバス→光触寺→徒歩にて鎌倉駅に折り返しルートもおすすめですが、十二所まで足を伸ばすなら朝比奈切通しもおすすめです。特に夏は山の静けさも味わえますし、きれいなわき水で足を洗うととても清々しい気分になります。七切通しの中でももっとも自然が豊かです。朝比奈切通しまでバスで行って、午前中は朝比奈切通し、お弁当でも食べて午後は光触寺とお寺もうひとつくらい回って、体力に余裕があれば徒歩、疲れたらバスで駅に向かえばよいと思います。
『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述
光觸寺〔熊野權現小祠〕
光觸寺(くわうそくじ)は、藤觸山(とうそくざん)と號す。道より南也、開山は一遍上人、藤澤の淸淨光寺の末寺也。堂に光觸寺と額あり。後醍醐天皇の宸筆也。本尊阿彌陀〔運慶作〕。觀音〔安阿彌作〕・勢至〔湛慶作〕。
此本尊を頰燒(ほうやけ)阿弥陀と云也。縁起の略に云、順德帝、建保三年(1215年)、京都に大佛師有り。雲慶法印と號す。將軍右大臣家の招請に因て下向の刻、鎌倉の佳人すくりの氏女町の局(つぼね)、時に年(とし)卅五。雲慶に對面して、此佛を作(つく)らしむ。四十八日を限り、成就せん事を願(ねかふ)。雲慶其の言に隨て成就す。來迎の三尊、長(たけ)は法の三尺なり。氏女信心歡喜して持佛堂に安置し、香花を捧(ささげ)、持念怠(をこた)らず。家に萬歳法師と云下(しも)法師あり。常に専修念佛して信心有と云(いへ)ども、佞(ねい)にして妄語、偸盗(ちゅうとう)人を煩(はづら)はしむ。人これを惡(にく)む。時に家々(いへいへ)に物の失する事あり。人互(たがひ)にこれを恥づ。起請誓文に及ぶ。獨り罪を萬歳に歸す。
氏女怒(いかつ)て、命じて是を禁ず。我か身は急用あつて、澁谷(しぶや)と云所へ行(ゆく)。命を受る者、萬歳をからめて、轡(くつわ)の水つきを燒(やい)て、左の頰(ほう)に火印をさす。退て見れば火痕なし。氏女還り怒らん事を恐て、再(ふたた)び火印をさすと云(いへ)ども、又痕(あと)もなし。氏女夢(ゆめみ)らく、本尊の枕上に立て悲て曰、我が頰(ほう)を見よと。氏女夢覺て本尊を見るに、火印の痕(あと)あり。涕泣(ていきゅう=涙を流して泣くこと)懺悔して、萬歳が罪を赦(ゆる)し、龜谷(かめがやつ)より佛師を招て、火痕を修せしむる事、二十一重(え)に及ぶ。終に復(ふく)せず。末代人に見せしめんが爲(ため)に、修する事なかれと云て、其の後氏女出家して、法阿弥陀佛と號す。 此奇異に驚(をどろい)て、田代(たしろ)の阿闍梨に寺地を請て、比企谷(ひきがやつ)に岩藏寺と號し、一宇を建立し、本尊を安置す。世にこれをかなやき堂と云ふ。
建長三年(1251年)九月廿六日、氏女卒七十三にして、此本尊に向ひ、端坐合掌し、念佛して往生しぬ。萬歳は、後に大磯(をほいそ)に菴を結び、弥々(いよいよ)専修念佛し、名號を書(かき)あきなふて、大往生を遂畢(とげをはん)ぬと云云。縁起二卷あり。筆者は亞相藤の爲相(ためすけ)、繪は土佐の將監光興(みつをき)なり。跋に文和第四の暦、暮秋下旬、大僧都靖嚴とあり。弥陀の厨子(づし)は、源の持氏(もちうぢ)の寄進也。又『沙石集』に云。鎌倉に町のつぼねとやらん聞へし德人有ける。近く仕(つか)ふ女童(めらふ)、念佛を信じて、人目には忍(しの)びつゝ、密(ひそか)に數返しけり。此の主(あるじ)は嚴(きび)しくはしたなく、物を忌祝(いみいわ)ふ事けしからぬ程(ほど)なり。正月一日にかよひしけるが、申付たる事にて心ならず、南無阿弥陀佛と申(まふし)けるを、此の主(あるじ) 斜(ななめ)ならず怒(いかり)、腹立て、いまいましく人の死(しし)たる樣(やう)に、今日(けふ)しも念佛申す事、返々(かへすかえす)不思議也とて、頓(やが)てとらへて、錢(ぜに)を赤くやきて、片頰(かたほう)にあてゝげり。念佛の故には、何なる科(とが)にも當(あた)れと思て、それに付(つい)ても佛をぞ念じける。思はずに痛(いた)み無(な)かりけり。
さて主(あるじ)、年始(としはしめ)の勤(つとめ)なんどせんとて、持佛堂に詣(まふ)でゝ、本尊の阿弥陀佛金色の立像を拜しければ、御頰(をんほう)に錢(ぜに)の形(かたち)黒(くろ)く付て見へけり。怪みて能々(よくよく)見るに、金燒(かなやき)しつる銭(ぜに)の形(かたち)、此めらふが顏(かほ)ほどにあたりて見(みへ)けり。あさましなんど云(いふ)ばかりなくて、めらふを呼(よ)んで見(みる)に、聊も疵(きず)なし。主(あるじ)大に驚き、慙愧懺悔して、佛師を呼(よむ)で金簿(きんばく)を押(をさ)するに簿(はく)は幾重(いくへ)ともなく重(かさ)ぬれども、疵(きず)は都(すべ)てかくれず。當時も彼の佛御坐(をはしま)す。金焼(かなやき)佛と申(まふし)あひたり。親(まのあた)り拜(をがみ)て侍りし。當時は三角に見へ侍(はべり)とあり。此の阿弥陀の事なるべし。前の説とは異なり。孰(いづれ)か是(し)なる事を不知(知ら不)。又堂に尊氏・氏滿・滿兼・持氏の位牌有。
鹽甞地藏
鹽甞地藏(しほなめぢざう)は、道の端(はた)、辻堂(つじたう)の内にあり。石像なり。光觸寺の持分(もちぶん)なり。六浦(むつら)の鹽賣(しほうり)、鎌倉へ出るごとに商(あきなひ)の最花(はつほ)とて、鹽(しほ)を此の石(いし)地藏に供する故に名く。或は云、昔(むかし)此石像光(ひかり)を放(はな)ちしを、鹽賣(しほうり)、像を打朴(うちたを)して鹽(しほ)を甞(なめ)させける。それより光(ひかり)を不放(放(はな)た不)。故に名くと云(いふ)。異域にも亦是あり。程明道、京兆の鄠(う)の簿(ぼ)に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々(としとし)傳へ云ふ、其の首(くび) 光(ひかり)を放(はな)つと。男女集(あつまり)見て晝夜喧雜たり。是よりさき政(まつりごと)をなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。明道始て到る時、其僧を詰(なじつ)て云く、我聞く石佛歳々(としとし)光(ひかり)を現ずと、其の事有(あり)や否(いな)や。僧の云く、これあり。明道戒(いまし)めて云。又光(ひかり)を現ずるを待(まち)て、必ず來り告よ。我職事あれば往事(ゆくこと)あたはず。まさに其首(くび)を取て、就(つい)て是を見るべしと云ふ。是よりして又光(ひかり)を現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。此鹽賣(しほうり)も如何(いか)なる人にや。鶴が岡の一鳥居より、此所まで、廿町ばかりあり。
熊野(くまの)權現の小祠
堂の前にあり。鎭守なり。