文覚上人屋敷跡

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文覚上人屋敷跡

(もんがくしょうにんやしきあと)

頼朝に平氏追悼の院宣をもたらした僧侶

鎌倉の名物僧侶、文覚の屋敷跡です。海の嵐を鎮める法力を持ち、頼朝に平氏追悼の院宣をもたらしたという伝説の人物です。

エリア北東
住 所鎌倉市雪ノ下4-4-32

岐れ道を十二所方面に少しいくと、荏柄天神社の鳥居の前あたりに大御堂の信号があります。そこを右折すると橋を越えたところに文覚上人屋敷跡があります。

文覚(1139~1203)は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した真言宗の僧侶。僧侶となる前は19歳で出家するまで遠藤盛遠という武士でした。従兄弟の渡辺渡の妻、袈裟御前に恋し、誤って殺してしまったのが文覚出家の原因といわれています。

京都高尾山の神護寺再興を後白河天皇にあまりに強く訴えたため伊豆配流となり、その時に源頼朝と親しくなりました。豪快な活躍が逸話として残る人物。後白河法皇に平氏追悼の院宣を要求しわずか8日で頼朝に院宣をもたらしたり、後鳥羽上皇の政を批判して流罪となったり、海の嵐を鎮める法力があったなどという伝説が残っています。

『吾妻鏡』や『源平盛衰記』はもちろん、明治の長唄『鳥羽の恋塚』、上方落語の『袈裟御前』、芥川龍之介の小説『袈裟と盛遠』、菊池寛の小説『袈裟の良人』、平家物語などに登場します。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

文覺屋敷
文覺屋敷(もんがくやしき)は大御堂(をほみだう)の西の方、賴朝屋敷(よりともやしき)の南向(みなみむか)ふなり。文覺、鎌倉に來て、此所に居すとなり。『東鑑』に、養和二年(1182年)四月廿六日、文覺上人、營中に參す、去る五日より、三七日断食して、江島(えのしま)に參籠し、懇祈肝膽を砕(くだ)き、昨日退出すと云ふ。是れ鎭守府の將軍藤原秀衡(ひでひら)調伏のためなりとあり。文覺の傳、『元亨釋書』にあり。

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文覚上人屋敷跡” に対して1件のコメントがあります。

  1. 元国文学科のおばさん より:

    30年ほど前のことになりますが、文覚上人が卒論のテーマでした。金沢区に住んでいる私は、チャリで文覚上人の史跡を訪ね歩き、屋敷跡も訪れました。こち亀の両さんのような豪放磊落な人物というのが私の印象で、思ったことは実行する行動力は、その後の私の生き方の指標となりました。が、なぜ、僧でありながら、頼朝に挙兵を進言したり、あちこちの寺を勧進しまくったのか、ずっと疑問でもありました。現代において、コロナ禍という厄病、地震、洪水などの自然災害、世界で絶えない紛争に、脅威を感じます。中世の社会では、たくさんの命が奪われるのを、目の当たりにしたことでしょう。そんな中にあって、文覚上人は社会の安定や命に対して僧として為すべきことを、ひたすら実行してきたのではないか、と、今、思うようになりました。袈裟への思いと悔恨を一生持ち続けていたのかもしれません。晩年の六代御前の命乞いのエピソードからも、そうした思いが感じられます。人の思いは時空を超えて引き継がれるものと思います。

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