荏柄天神社

目 次

荏柄天神社

(えがらてんじんじゃ)

本殿は鎌倉に少ない中世の建物。鎌倉一の大銀杏も見事

仏像や画などは鎌倉時代から残るものが結構ありますが、数々の災害によって鎌倉に中世の建物はほとんど残っていません。その数少ない一つが荏柄天神社の本殿です。また、境内にある大銀杏は鶴岡八幡宮の大銀杏なきいま、鎌倉一の大銀杏となっています。

エリア北東
住 所鎌倉市二階堂74
主祭神菅原道真
創 建1104年
拝 観8:30〜16:30
アクセス「鎌倉駅」よりバス「天神前」下車、徒歩1分、もしくは「鎌倉駅」下車、徒歩20分

入口の門、奥に本殿が見えます。

入口の門、奥に本殿が見えます。

日本三古天神のひとつ

荏柄天神社は、菅原道真を祀る太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三古天神とされています。

荏柄天神社の創建は定かではありませんが、江戸時代に黄門様(水戸光圀)が編纂した元祖鎌倉ガイド『新編鎌倉志』には「當社は賴朝卿の時より有なり。しかれども祝融の災(はざは)ひ度々(たびたび)にて、記録不傳(傳はらず)」とあり、また、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも頼朝が鬼門の鎮守とし社殿の改築もしたという記録があり、頼朝鎌倉入りの1180年(治承4年)にはすでにあったことがわかります。

江戸時代までは山門に登る階段手前右側、ちょうどビャクシンの大木を鳥居のように交差させたあたりに別當院があったようです。『新編鎌倉志』にはこうあります。「別當を一乘院と云ふ。眞言宗、洛の東寺の末寺なり。」その別當は一乗院といい、真言宗の寺院であり東寺の末寺であったそうです。

恐らく明治維新とその後の神仏分離、廃仏毀釈運動によって破壊されたのではないでしょうか。ごく近くの鶴岡八幡宮も、源頼朝創建以来神仏が共存する神宮寺(鶴岡八幡宮寺)でしたが、明治の廃仏毀釈運動によって数多くの貴重な仏教関連施設は破壊されました。

源頼朝はこの神社を鎌倉幕府の鬼門の守護と定め、社殿を造営しました。現在の本殿は1624年に鶴岡八幡宮の旧本殿を移築したものです。この本殿は鶴岡八幡宮の若宮本殿として1316年に建てられ、1622年(元和8年)に行われた鶴岡八幡宮造替の時に鶴岡八幡宮から移築されたといわれています。建物は改修を経つつ現在に至っており、鎌倉に現存する数少ない中世の建造物です。鎌倉~現在に至るまで、源、北条、足利、北条、豊臣、徳川の各氏に信仰されてきました。

お祀りするのはいわずと知れた菅原道真(845-903)です。菅原道真は学問の家柄に生まれ、幼少の頃から才能を示しました。政治家としても活躍し、家柄を超えて右大臣にまで登りますが藤原時平の策略により九州太宰府に流されてしまい、そこで最期を遂げました。

道真の死後、藤原時平を始め反道真派が不可解な死を遂げる事態が続き、これを収めるため神として祀るようになりました。その後、道真を学問の神として崇めるようになり現在に至ります。鎌倉で育った人なら、高校、大学など試験の前に訪れた思い出があると思います。

境内には、樹齢900年といわれる大銀杏があります。鶴岡八幡宮の大銀杏と双璧をなし、高さ25メートル、胴回り10メートルという立派なものです。鶴岡八幡宮の大銀杏なきいま、鎌倉一の大木となっています。

本殿の左側には漫画家たちが建てた絵筆塚があります。石川雅也、藤子.F.不二雄、岡山俊二、金親堅太郎などの絵を版にしたものがたくさん貼られ、塔となっています。

静かな場所の高い位置に建てられているので静かな風情です。山を背にしていますから季節には紅葉もキレイですし、桜や梅も楽しめます。公式HPはトップページから各ページへのジャンプに際してどこをクリックしていいか一瞬わかりにくいですが、神社の家紋をクリックすれば進むことができます。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

荏柄(えがら)〔柄或作草(柄、或は草に作る)〕の天神は、大倉(おほくら)村の東、海道の北なり。當社は賴朝卿の時より有なり。しかれども祝融の災(はざは)ひ度々(たびたび)にて、記録不傳(傳はらず)、文獻徴とすべきなし。『東鑑』に、正治三年(1201年)九月十一日、荏柄(えがら)の社祭(やしろまつり)なりとあり。又建暦三年(1213年)二月二十五日、澁河(しぶかは)刑部の六郎兼守(かねもり)、十首の詠歌を、荏柄(えがら)の聖廟に進ずとあり。今十九貫二百文の御朱印あり。別當を一乘院と云ふ。眞言宗、洛の東寺の末寺なり。本社に菅丞相束帶の像を安す。作者不知(知れず)。足(あし)・膝燒(ひざやけ)ふすぶりてあり。 五臟六腑を作り入れ、内に鈴(れい)を掛(かけ)て舌(した)とし、頭内に十一面觀音を作りこむと云ふ。又門前に、關取場(せきとりば)と云所ろあり。今は畠(はたけ)とす。相ひ傳ふ、北條氏直(ほうでううじなを)より、宮(みや)の前に關をすへ、關錢(せきせん)を取(とり)、宮(みや)造營の爲に寄附せられし所ろなりと。其の關札板に書付(かきつけ)今にあり。鶴か岡の一の鳥居より、當社馬場前(ばばさき)まで、六町計(ばかり)あり。

ここから下は宝物の一覧になっています。経典など仏教関連の宝物がいくつもみられます。境内には別當院もあったようです。明治の廃仏毀釈によって鶴岡八幡宮にあった貴重な数々の仏教関連施設が破壊され、宝物が廃棄・転売されたように、ここでも仏教関連のものが除かれたことが想像できます。

神寶

天神自畫の像
壹幅。【大(をお)日記】に、長享元年(1487年)、荏柄(えがら)の天神、駿河(するが)より還座、自筆の畫像也とあり。是ならん。

龜山帝の院宣
壹通。弘安三年(1280年)五月五日、權大納言、あてどころは、民部卿法印御房とあり。

源の尊氏(みなもとのたかうぢ)自畫自讚の地藏
壹幅讚文如左(左の如し)。夢中有感通、令我畫尊容、利濟徧沙界、善根無所竆、爲天化藏主、仁山書、文和四年六月六日(夢中に感通有り、我をして尊容を畫(えかか)しむ。利濟沙界に徧く、善根竆る所ろ無し、天化藏主が爲に、仁山書す。文和四年六月六日)とあり。仁山は、尊氏の道號なり。『梅松論』に、尊氏、自(みずから)毎日地藏を圖繪し、自讚御判有とあり。駿州淸見寺にも、右の如くなる尊氏自讚の地藏の像あり。

瑜伽論
貳卷 菅丞相の筆、長(なかさ)二寸五分、一行に二十五字。此論は一部百卷の物なり。然(しかる)を十卷に書(かきつづ)めらる。其内の二卷なり。餘は極樂寺(ごくらくじ)に三卷、金澤(かなざは)の稱名寺(しやうみやうじ)に一卷、高野金剛三昧院に一卷、竹生島(ちくぶしま)に一卷合(あはせ)て八卷は今尚を存す。其外の卷は、在所不知也(知れざるなり)。

天神の名號
壹幅 將軍源の義持(よしもち)の筆、南謨天滿大自在てん神(なむてんまんたいじざいてんじん)、顯山と有て、義持の花押(くわあふ)あり。顯山は、義持(よしもち)の道號なり。
壹幅 鶴滿丸(つるみつまる)六歳書すとあり。相ひ傳ふ、親鸞上人の童名なりと。

心經
壹卷 紺紙金泥、源の基氏(もとうじ)の筆なり。

法華經
壹部 三浦の道寸(だうすん)が筆也。
同 壹部 大覺禪師の筆也。

天神の縁起
三卷 書は土佐が筆、詞書(ことばがき)は藤原の行能なり。當社の縁起にてはなし。菅丞相一代の事跡をかけり。

歌仙
三十枚。三藐院の關白信尹(のぶただ)の筆也。六枚不足。

扇(あうき)の地紙(ぢがみ)
壹枚 古歌八首を書、其内二首、はしがきあり。台德公の御自筆也。

刀(かたな)
壹腰 正宗(まさむね)が作と云。無銘。長さ一尺三寸五分、廣さ三寸五分。今の世に小刀(ちひさがたな)と云製也。指表(さしをもて)に梅(むめ)、裏(うら)に天蓋不動の梵字、倶利伽羅(くりから)を彫る。大進坊が彫物也。鞘(さや)は黑塗(くろぬり)也。梅の蒔繪(まきえ)有り。

笄(かうがひ)
壹本 後藤祐乘が彫物(ほりもの)、梅なり。長さ九寸五分。

詩板

壹枚 梅の詩を彫(ほり)たる板なり。又此詩を寫(うつ)して一軸となして納(をさ)む。井伊の掃部の頭直孝(なをたか)の家臣、岡本(をかもと)半助石上宣就(いそのかみののぶなり)が筆なり。其の詩如左(左の如し)。

紅梅殿

老松殿
共に本社の左右にあり。

和田(わだ)の平太郎胤長(たねなが)が屋數
『東鑑』に、胤長(たねなが)が屋敷の地、荏柄(えがら)の前に在て、御所の東鄰なれば、昵近(じつきん)の士(さむらひ)、面々(めんめん)これを望申(のぞみまうす)とあり。胤長(たねなが)は、建保元年(1213年)三月、流罪せらる。舊跡今畠(はたけ)となる。其所不分明也(其の所分明なら不(ざる)也)。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の荏柄天神圖

1685年(貞享2年)、黄門様(水戸光圀)によって編纂された元祖鎌倉ガイド『新編鎌倉志』の荏柄天神社図。

1685年(貞享2年)、黄門様(水戸光圀)によって編纂された元祖鎌倉ガイド『新編鎌倉志』の荏柄天神社図。

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