大慈寺跡
目 次
大慈寺跡
(だいじじ)
源実朝が建立したかつての大寺院
1214年(建保2年)に実朝が建立したといわれる大慈寺。明王院の東側一帯に大伽藍が建っていたといわれています。
エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市十二所(明王院手前を右折し細い道を進む)
アクセスJR・江ノ電「鎌倉駅」よりバス「十二所」下車、徒歩5分
神奈川県鎌倉市十二所
かつて十二所にある明王院の東側一帯は、源実朝が1214 年(建保2年)に建立した大慈寺があったといわれています。『吾妻鏡』には新御堂と呼ばれた大慈寺の供養が行われ、実朝以下有力御家人が参列し、栄西が導師を務めました。現在は民家と路地の狭間に石碑が残るのみです。所在地については諸説があります。
鎌倉幕府公式記録『吾妻鏡』の大慈寺記述
『吾妻鏡』の記述をいくつか追ってみます。
1214年(建保2年)4月18日、御所において新御堂(大慈寺)について評議が開かれた。北条義時、大江広元、二階堂行光、三善康信、二階堂行村らが集まった。将軍実朝から京都より高僧を招きたいと希望があった。広元、行村、康信は道中の雑事などを考えると、関東の僧を用いることが徳政であると述べた。
同年4月21日、新御堂(大慈寺)に安置される金剛力士像が造立された。
同年7月1日、実朝は二階堂行光を使者として、栄西に対して大慈寺供養の導師を務めるよう命じた。
同年7月27日、雨の中、大慈寺の供養が行われた。
『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述
大慈寺舊跡
大慈寺(だいじじ)奮跡は、五大堂と、光觸寺との間(あいだ)、南の谷(やつ)にあり。『東鑑』に、建保二年(1214年)七月廿七日、大倉の大慈寺供養なり。新御堂と號す。實朝(さねとも)將軍の時なり。後正嘉元年(1257年)十月一日修理の事あり。本堂・丈六堂・新阿彌陀堂・釋迦堂・三重塔・鐘樓等、莊嚴の美。殆(ほとんど)古跡に過(す)ぎたりとあり。宗尊親王の時なり。