唐糸やぐら
目 次
唐糸やぐら
(からいとやぐら)
唐糸草子の舞台
源頼朝時代の史跡。頼朝を暗殺しようとして失敗した木曽義仲の家来、手塚光盛の娘、唐糸が幽閉されたやぐら。唐糸は娘 万寿の親孝行に心打たれた頼朝により許されます。
エリア大町・小町
住 所鎌倉市大町
アクセス現在正面からは入れず。衣張山山頂付近から獣道。詳しくは衣張山ハイキングコース及び大町釈迦堂口遺跡記事を参照
唐糸やぐらは、鎌倉時代に造られたといわれるやぐらです。大町の奥、むかし北条時政山荘といわれていた地域、釈迦堂口切通しの上部を越えたあたりにあります。旧北条時政山荘(名越亭)跡は、鎌倉市教育委員会による平成20年度の調査により13世紀後半〜のものとわかり、大町釈迦堂口遺跡と改められました。
唐糸やぐらの「唐糸」とは、源頼朝に討たれた木曽義仲の有力な武将の一人、手塚光盛(?-1184)の娘です。
光盛は木曽義仲と平氏が戦い、4万騎の平氏軍を5千騎の木曽義仲軍が破った1183年(寿永2年)の篠原の戦いにおいて、平氏軍の老将斎藤実盛を打ち取り『平家物語』の名場面の一つとして語り継がれています。
斎藤実盛は、木曽義仲の父である源義賢が大倉合戦に敗戦した際、幼かった木曽義仲を木曽へと逃がし、死罪から救った人物でもあり、この逸話は能の演目ともなっています。
光盛は最後の4騎となるまで主君義仲に従い、1184年(寿永3年)1月、頼朝方に討ち取られました。
光盛の娘である唐糸は父の仇である源頼朝を討とうと、頼朝に仕えて密かに機会を伺っていましたが、正体が発覚して源頼朝方に捕らえられてしまいます。そして幽閉されたのが、この唐糸やぐらです。2年に渡り幽閉されたと伝わるやぐらは、内部よりも入口が狭くなっており、いかにも岩の籠といった雰囲気です。
唐糸やぐらに捕らえられた唐糸は当然死罪になるところでしたが、唐糸の娘である万寿の活躍によって救われます。万寿は今様の名手として信濃から鎌倉へやってきて頼朝に仕えていました。ある日、鶴岡八幡宮寺に奉納する舞手に選ばれ、その舞を頼朝が大変気に入り、褒美を与えるといいました。
万寿はこの時、事情を打ち明け褒美として自分を母 唐糸の身代りにして欲しいといいました。頼朝は驚きつつも唐糸、万寿ともに許し、唐糸は娘 万寿とともに信濃へと帰りました。この物語は室町時代につくられた『御伽草子』23編の一つ『唐糸草子』によります。
唐糸やぐらのある一帯はかつて北条時政の山荘跡といわれていましたが、近年の調査により13世紀後半のものと判明しており、何の史跡かはわかっていませんが大町釈迦堂口遺跡と名称が改められました。
写真を撮った数年前は入れたのですが、残念ながら現在、大町側の正面ともいえる入口は封鎖されており、衣張山山頂からかなり歩きづらい文字通り獣道を抜けなくてはいけません。この道はおすすめしづらいものがあります。
『唐糸草子』頼朝が唐糸を許す場面の現代文
万寿は親の名を名のりはいたすまいと思ったが、この機会に名のらなければ、親(唐糸)を救うことはできないと思ったのであろう、思いきって名のった。
「私の親は御所の御裏の石の牢に押し込められております、唐糸でございます。そういうわけで四歳で親から引き離されましたが、去年の春の頃、母が押し込められているということを、信濃国できき、居ても立ってもいられなくなりまして、母の命の身代わりになろうと思い、ここまで参ったのでございます。このたびの今様の御褒美として、母の命と、私の命を取りかえてくださいませ」と申しあげた。
頼朝はお聞きになり大変驚き、しばらくものを仰らなかった。
少したち、仰るには「唐糸は、お前の母であったのだな。唐糸の命は、鳥の頭が白くなり、馬に角の生えたとしても、助けるまいと思っていたが、このたびの褒美ならば、何が惜しかろうか。唐糸のあやうい命が、もし今まで存命であったならば、急いで召し出して、万寿に与えよ」とおっしゃった。
土屋は、「承知いたしました」と申しあげて、石の牢屋をひき開けさせて、二年余り押し込めていた、唐糸を召し出し、御所様の庭に連れて行って、万寿に渡した。万寿はたいそう喜んで、母にひしと抱きつき、嬉し泣きに泣くので、母もいっしょに涙を流した。