岡崎義実

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岡崎義実

(おかざき よしざね 1112-1200)

三浦義明の弟、慈悲深く忠義に厚い武将

源氏累代の家人、岡崎氏の祖

三浦氏の庶家、岡崎氏の祖であり、三浦義明の弟。現在の神奈川県平塚市岡崎・伊勢原市岡崎にあたる相模国大住郡岡崎を領したことから岡崎を名乗りました。

源氏累代の家人として大変忠義に厚い武将。平治の乱(1160年)において源頼朝の父、義朝が敗死すると、鎌倉にあった義朝の屋敷跡(現 寿福寺)に祠を建立して菩提を弔いました。

源頼朝が挙兵時に頼みとした勇将の一人

1180年(治承4年)源頼朝挙兵においては嫡男の佐奈田与一義忠を引き連れ直ちに駆けつけ、挙兵直前の8月6日頼朝が一人ずつ部屋に呼んだ特に覚悟のある勇士の一人となりました。

8月17日、挙兵した頼朝は伊豆国目代・山木兼隆を打ち取り、現在の神奈川県湯河原町(相模国土肥郷)に進み、23日、300騎の軍勢をもって石橋山の合戦にのぞみます。頼朝は大庭景親率いる3,000騎に敗れますが、この戦いにおいて岡崎義実の嫡男佐奈田与一義忠は先陣を切って勇敢に戦い後世に武勇を残します。その様子は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく描かれています。

石橋山の合戦に敗れ、真鶴から安房へと落ち延びる頼朝のため、北条時政三浦義澄とともに先発して安房へと向かい後に頼朝と合流、再起した頼朝とともに鎌倉に入りました。

10月20日、水鳥の羽音に驚いて平氏が逃げ去った富士川の戦いの夜、源義経が黄瀬川にある頼朝の陣に訪れ最初に出会ったのが義実でした。不審に思い当初取り次がなかった義実でしたが、頼朝、義経の対面「黄瀬川の対面」の場面に際し、諸将とともに涙したと『吾妻鏡』は伝えています。

慈悲深い人柄、出世は下手?

三浦義明の弟である義実はこの時すでに68歳という高齢。その後、平氏追討の戦いの記録には名が登場せず、源氏累代の御家人としてもっぱら行事に名を連ねています。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』は義実の慈悲深い人柄を伝えるエピソードを残しています(1181年(養和元年)7月5日の項)。石橋山の戦いにおいて義実の嫡男、佐奈田与一義忠を討ち取った長尾定景が捕らえられ、頼朝は義実に身柄を賜りました。

嫡男を討ち取った敵、定景を得た義実でしたが、元来の慈悲深い性格から即座に打首にせず、日々が過ぎておりました。その間、定景は法華経を欠かさず転読する日々を送りました。義実は頼朝のもとを訪れ、夢のお告げとして逆に我が子の敵、定景の助命を乞いました。

「定景は我が子を討った敵であり、打首にせねば気がすまぬところではありますが、法華経の信仰者として毎日読誦する定景の声を聞いているうちに怨念は失せました。いま定景を討てば、かえって我が子義忠の成仏を妨げると思えますから、定景を許していただきたい。」

これを聞いた頼朝は、定景の身柄は義実の鬱憤を鎮めるために賜ったものであるから、法華経を重んじ義実が心を鎮めるたのであれば、助命の儀は願いの通りにすべきであるといったそうです。

源頼朝が治承・寿永の乱を平定、征夷大将軍となり鎌倉に武家政権を確立した後の1193年(建久4年)、義実は老齢を理由に出家します。以後は目立った活躍はなかったものの、1199年(建久10年)頼朝死去後に起こった梶原景時弾劾状にはその名が連ねられています。

1200年(正治2年)3月14日、朝雨が降り、日中は晴天であったものの寒さが冬より甚だしい日でした。出家した義実入道は尼御台所となっていた政子の元を訪れ、こう伝えました。

「80歳の老境にして余命は幾ばくもなく、その上何事においても貧しい状況です。少ない恩地も嫡男・佐奈田与一義忠の菩提を弔うため仏寺に寄進するつもりであり、残る領地は僅かに針が建つ程度です。これでは子孫が安堵することができません。」

これを聞いた政子は「義実は石橋山合戦の頃、大功を挙げたものである。老後においても最も賞翫されるべきものであるから、早く一所を充て賜るように」といって二階堂行光を使者として源頼家に取り計らいました。

同じ年、1200年(正治2年)の6月21日、「岡崎四郎平義実法師が死去、享年89歳、三浦義継の四男であった」と『吾妻鏡』は伝えています。

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