円覚寺
目 次
円覚寺
(えんがくじ)
北条時宗が建立した鎌倉最大級の寺院
鎌倉最大級の寺院。建長寺とともに鎌倉禅宗を代表する存在です。蒙古襲来を撃退した8代執権北条時宗が双方の戦没者を追悼するために建立しました。歴史、伽藍、仏像、禅に触れる機会、花や紅葉など魅力が凝縮されています。
エリア北鎌倉
住 所鎌倉市山ノ内409
宗 派臨済宗円覚寺派
本 尊宝冠釈迦如来
創 建弘安5年(1282年)
開 基北条時宗
札 所鎌倉観音札場第33番
拝 観8:00〜16:30(12月〜2月は16:00まで)
アクセス「北鎌倉駅」下車、徒歩1分
鎌倉最大級の寺院。建長寺とともに鎌倉禅宗を代表する存在の円覚寺。蒙古襲来を撃退した8代執権北条時宗が双方の戦没者を追悼するために建立しました。歴史建造物や仏像、禅に触れる機会、花も紅葉も海の雰囲気以外は鎌倉寺散歩の要素はおおむね味わえます。
神奈川県鎌倉市山ノ内409
建長寺と並び鎌倉を代表する寺院です。大小約30の建物が広大な敷地に配置されており、鎌倉時代を通じて権力者である北条氏に庇護されてきた臨済宗らしいスケールの大きさはいまでも健在。数ある鎌倉寺社の中でも鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺はビッグ3とでも呼びたい存在といえます。鎌倉散策がお好きな方ならすでに一度は訪れている場所だと思います。目新しい体験を加えるなら、座禅会はいかがでしょうか。一般参加可能な座禅会が随時開催されています。座禅を体験すれば前後の鎌倉散策もひと味違ったものになるかもしれません。
2度の蒙古襲来を退けた鎌倉幕府8代執権北条時宗が、その双方の戦没者を追悼し、禅の道を広めたいと1282年に建立したのが円覚寺の始まりです。よく様々な場面において敵味方区別なく供養しているその精神性が褒め讃えられることがありますが、元来仏教というのは、事象を区別する人間の執着心を取り払うものですから、仏教本来の魅力を体現しているといえなくもありません。余談ですが、臨済宗を伝えた中国は文化大革命によって過去の仏教文化をも本質的にすべて捨ててしまいました。昨今のやり様を見ていると単なる共産党侵略王朝だなと嘆息します。
さて、幾度も火災にみまわれた円覚寺は創建当初の建物は残っていないものの、その都度再建され現在まで格式ある禅寺の姿を保っています。日本有数の禅寺として大切にされてきた証拠なのでしょう。江戸時代(天明5年/1785年)に再建された三門は、空、無相、無願を象徴する三解脱門ともいわれます。諸々の執着を取り払って、中へと入りましょう。仏殿の前には開祖である無学祖元が手植えしたと伝えられる見事なビャクシンが植えられています。
昭和39年に再建された仏殿には御本尊である宝冠釈迦如来像が安置されています。どっしりと構え、見事な宝冠を纏った姿には時間を忘れてみとれてしまいます。仏殿の天井にある見事な白龍図は前田青邨監修によって守屋多々志によって描かれ、「大光明寶殿」の額は1378年後光厳天皇から賜ったものです。
北条時宗を奉った「開基廟」、在家修行者のための専門道場「居士林(こじりん)」、座禅会や説教会・講座などが開かれる「方丈」など、大寺院だけにみどころはたくさんあります。中でも神奈川県唯一の国宝建造物である「舎利殿」は高名です。室町時代中期15世紀の建築であり、日本における禅宗様建築を代表する建築物として評価されています。普段は見ることができませんが、正月3が日と11月に外観のみ公開されます。
主な見所
三門
北条貞時(時宗の子)時代に書かれた伏見上皇の勅筆とされる「円覚興聖禅寺」の額が掲げられた鎌倉屈指の山門(三門)であり、神奈川県指定重要文化財です。楼上には十一面観音や十二神将、十六羅漢像が安置されています。現在の山門は1785年(天明5年)、開山の無学祖元没後500年の年に大用国師(だいゆうこくし)により再建されました。三門の「三」とは、三解脱(空、無相、無願)を象徴しており、涅槃の世界である仏殿へと入る前に諸々の執着から解脱されるための門です。
「空」とは、万物は因縁によっておこる仮の相であり実体はないということであり、自我も存在もまた同じであるということ。ブッダの言葉を伝えた最古の書物である『スッタニパータ』にも「常に、世界は空であることを観ぜよ」とあります。
「無相」とは、事物や現象は非存在であり、本来は空であるということ。「無顔」(無作・むさ)とは因縁によって生じたものではなく、生ずることも滅することもない、現象を超えた真理のこと。これらを体得する修行を三解脱門と呼び、それを形にし、象徴させたものが三門なのです。心して通ると、数えきれないほど身体中に貼り付いた色眼鏡がとれていくような気持ちになります。
仏殿
禅宗様式である七堂伽藍の中心に位置する最も重要な建物。入口の頭上には後光厳上皇(1338-1374)から賜った「大光明寶殿」の額が恭しく掲げられ、円覚寺の御本尊、宝冠釈迦如来像の他、梵天、帝釈天像などが安置されています。一歩足を踏み入れると宝冠釈迦如来像や前田青邨監修(守屋多々志・画)による天井画に圧倒されます。建物は1923年(大正12年)の関東大震災によって倒壊してしまいましたが、1964年(昭和39年)に再建されました。再建にあたっては1573年(元亀4年)の設計図(指図)に基いて建設が行われたといいます。
選仏場
南北朝時代の薬師如来立像を安置する坐禅道場。関東大震災(1923年)より仏殿が倒壊して以降、1964年(昭和39年)の再建まで仏殿を兼ねていたそうです。1699年(元禄12年)伊勢長島藩第2代藩主、松平忠充(1651-1730)が大蔵経とともに禅堂を建立したのが、この選仏場です。
大蔵経と禅堂を寄進した松平忠充は、徳川家康の異父弟 松平康元につながる名門でした。1685年(貞享2年)父 康尚の隠居にともない家督を継いで伊勢長島藩第2代藩主となります。円覚寺に寄進したことから良いイメージを持ちますが、残念ながらこの忠充は、暗君として藩を改易に追い込んだ藩主でありました。些細なことから家臣を追放したり切腹させたり、さらには切腹させた重臣の子をも死刑にするなどの乱行を行い、これを知った幕府により1702年(元禄15年)藩は改易の憂き目に遭うこととなりました。
奥に安置されている南北朝時代につくられた薬師如来像立像は、何気なくおかれており参拝せずに通りすぎていく方も多くあまり混み合いませんが、しかし、その流麗な立ち姿は息を呑むような美しさです。春、選仏場前は見事な梅が咲き、薬師如来の姿を一層引き立てます。
居士林(こじりん)
在家(居士)修行者のための道場が居士林です。1928年(昭和3年)柳生徹心が東京牛込の柳生剣道場を寄贈しました。現在も、学生坐禅会、土日坐禅会が開催され、初心者の参加できる土曜坐禅会も定期的に開かれています。我々在家にも開かれた円覚寺の姿を感じる場所です。
妙香池(みょうこうち)
夢窓疎石作と伝わる池。1282年(弘安5年)の円覚寺創建当初からある放生池(ほうじょうち)です。2000年(平成12年)に方丈の裏手にある庭園とあわせて江戸時代初期の絵図に基づいた姿に復元され、より美しくなりました。妙香池、開山堂、佛日庵のあたりは紅葉がとてもきれいです。鎌倉時代から永々と続く古刹と紅葉に寒さもまた心地よく感じます。
方丈(ほうじょう)
方丈とは元々寺の住職の居住する場所ですが、現在は各種儀式や行事に使用されています。一般参拝客は建物の中には入れませんが、前庭には多くの観音像が置かれ、「百観音」といわれます。さらにそのたくさんの観音像の間に梅が植えられ、季節にはつい時を忘れて佇んでしまいます。もうひとつ、前庭にある目を引く巨木は無学祖元手植えと伝わる柏槙(ビャクシン)であり、鎌倉市の天然記念物に指定されています。
開山堂(舎利殿)
円覚寺にある二つの国宝のうちの一つ、舎利殿があります。舎利殿は神奈川県唯一の国宝建造物でもあります。通常は非公開ながら、門から遠目に舎利殿をのぞむことができます。鎌倉市西御門、現在来迎寺となっているあたりにあった鎌倉尼五山第一位の太平寺の仏殿を移築したものであり、室町時代中期、15世紀の建物といわれ、禅宗様建築を代表する建物として全国的にも貴重なものです。正月3が日と11月3日前後に外観のみ公開されます。
洪鐘(おおがね)
北条貞時が霊夢によって鋳造を命じ、物部国光が鋳造した国宝。高さ約2.6m、関東一の大梵鐘であり、国宝に指定されています。1301年(正安3年)に北条貞時が国家安泰を祈願して鋳造しました。このスケールにして細部まで行き届いた緻密なつくりとなっており、鎌倉時代後期を代表する梵鐘です。三門右手から小山を登っていくと洪鐘と弁天堂があります。
弁天堂(べんてんどう)
鎌倉幕府第9代執権、北条貞時は七夕の夜、江ノ島弁財天に籠り天下の安泰を祈りました。貞時はこの時にみた霊夢から現在国宝となっている洪鐘(おおがね)を鋳造し円覚寺に奉納するとともに弁天堂を建立しました。洪鐘鋳造にあたっては江ノ島弁財天の加護があったといわれ、鐘の完成した1303年(正安3年)8月7日以来、61年目ごとに3日間弁財天像を開帳し行われる洪鐘祭は、700年以上の時を経た現在でも続いています。ちなみに、現在の江ノ島は明治維新にともなう神仏分離・廃仏毀釈により仏教施設を破棄・破壊し金亀山与願寺から江島神社となりましたが、それまでは源頼朝ゆかりの弁財天が多くの信仰を集めていました。