明月院

目 次

明月院

(めいげついん)

観音様の優美を感じる禅寺

あじさい寺としてとても有名なお寺さんです。北鎌倉にあり、あじさいの季節には大変混み合います。院という名のとおり細長い谷戸に建っており、あじさいだけでなく紅葉は包み込まれているような見事なものです。

エリア北鎌倉
住 所鎌倉市山ノ内189
宗 派臨済宗建長寺派
本 尊聖観世音菩薩
創 建1394年
開 基上杉憲方
札 所鎌倉三十三観音第30番
文化財等木造上杉重房座像(重文/鎌倉国宝館に寄託)、紙本著色玉隠和尚像、紙本淡彩明月院絵図、北条時頼坐像など
拝 観9:00〜16:00(6月は17:00)/300円(6月は500円)。本堂後庭園は別に500円。
アクセス「北鎌倉駅」下車、徒歩8分

あじさい寺として有名な北鎌倉の古刹

あじさい寺として有名な明月院は、山里にひっそりと佇み女性的な優美さをもつ北鎌倉の禅寺です。近隣にある広大で骨太な雰囲気の円覚寺とは対照的に優しく包み込まれるような気分にさせてくれます。 庵としての始まり、支院としての成り立ちも明月院にほっとする静けさをよりひきたてています。

本堂から後庭園を望む有名な景色。

本堂から後庭園を望む有名な景色。

標高147mの六国見山の麓に位置し、境内は左右を山に挟まれて入口から山の懐に向かうように細長く続いています。山並みを活かした境内の景観はとても美しく調和がとれていて、花や樹木の配置、建物との調和、境内の清掃はもとより、樹木草花への山水ホースを竹筒の中に仕込み、塩化ビニールの無粋を感じさせないなど参拝者に見せるための配慮が行き届いています。 第2次大戦後に植えられ明月院の顔となったあじさい、後庭園の花菖蒲(夏)、冬の蝋梅、春の梅や桜も見事。紅葉の季節に訪れれば、秋に包まれているような感覚が味わえます。

明月院後庭園の花菖蒲。花菖蒲と紅葉の季節のみ公開され、多くの参拝者で賑わいます。

明月院後庭園の花菖蒲。花菖蒲と紅葉の季節のみ公開され、多くの参拝者で賑わいます。


明月院のあじさい。多くの誌面を飾ったカット。

明月院のあじさい。多くの誌面を飾ったカット。


受付を過ぎるとすぐ、満面の紅葉。

受付を過ぎるとすぐ、満面の紅葉。

明月院の女性的な優美さは、後代になって女性性を付加された観自在菩薩を本尊としていることも関係しているのかもしれません。「観音経」は正式に「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんぼん)といい、「妙法蓮華経」(法華経)の第25品にあります。美しい詩が多数納められた観音経は、なんとなしに明月院の流麗な景色と通ずるものを感じてしまいます。なお、観自在菩薩に女性性を見るむきはインドや中国には見られず、日本独自のものだそうです。

明月院の起源は北条時頼創建の最明寺

明月庵としての起りは永歴元年(1160年)。その後北条時頼が1256年この地に最明寺を建立、その子の時宗が禅興寺として再興されました。さらに後代関東管領上杉憲方によって禅興寺の塔頭となり明月庵から明月院となりました。塔頭(たっちゅう)とは、高僧を慕って弟子が墓の側に構えた寮舎や大寺院の支院を指し、明月院の場合は後者です。明治初年禅興寺は廃寺となり明月院が残りました。開基上杉憲方(のりかた)、北条時頼の公墓所も境内に見ることができます。

明月院。北条時頼の墓。このあたり一帯には明月院が建立される前、時頼が没した最明寺がありました。時頼は第5代執権として執権政治の最盛期を築きました。

明月院。北条時頼の墓。このあたり一帯には明月院が建立される前、時頼が没した最明寺がありました。時頼は第5代執権として執権政治の最盛期を築きました。

明月院の宗派、臨済宗は中国に生まれた中国禅宗五家のひとつを源流とし、日本の鎌倉時代、中国宋時代に中国に渡った栄西によって日本に伝えられました。栄西は中国から戻り1202年京都に建仁寺を開きました。日本では権力者である武家政権に支持され、地方豪族や一般民衆に支持された曹洞宗とは対をなします。

臨済宗の中でも明月院の所属する建長寺派は、1253年、五代執権北条時頼が中国宋から呼び寄せた蘭渓道隆によって起こされました。ちなみに円覚寺派は1282年、蘭渓道隆の後継として来日した無学祖元により始まっています。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

明月院
明月院は、禪興寺の東にあり。開山は密室守嚴和尚、大覺の法孫也(なり)。上杉安房守憲方(うへすぎあはのかみのりかた)の建立。憲方(のりかた)を明月院天樹道合(てんじゆだうがふ)と號す。應永元年(1394年)甲戌十月廿四日逝去、六十歳。本尊觀音、腹(はら)の中(うち)に小佛像數千あり。大日虛空藏・愛染の像也と云ふ。密室の木像あり。此の院は、昔は禪興寺の塔頭(たつちう)なり。今は禪興寺方丈とす。建長寺領の内、三十一貫文、此寺に附す。

寺寶

九条の袈裟
壹頂 藕絲にて織(を)ると云ふ。黄龍より千光、千光より大覺、大覺より無及、相承して今に存す。

舍利
壹粒 金塔に入。源の義經(よしつね)守(まも)りの舍利。古河(こが)の御所よりこれを納む。金文紗の直垂(ひたたれ)の袖に包(つつ)んで有しを、袖は古河に殘(のこ)すと云ふ。
※舎利とは遺骨。特に仏や聖人の遺骨。

布袋の木像
壹軀 運慶が作。 牡丹の繪 貳幅對 超昌が筆なり。牡丹花種々あり。一種ごとに、其の傍(かたはら)に金字にて花の名を書す。

二十八祖の畫像
萱幅 唐畫。 鶴の繪 壹幅 筆者不知(知らず)。

鳩の繪
壹幅 宋の徽宗皇帝の筆と云傳ふ。

禪興寺幷(ならび)に明月院の地圖
壹枚 圖の面に源氏滿(うぢみつ)の花押あり。昔(むかし)繁昌(はんじやう)の時の圖也。

中峯自贊の像
壹幅 贊に曰く、天目山不遠、遠山在眉睫、要識幻住眞、畫圖難辨別、春滿錢塘潮、秋湧西湖月、覿面不相瞞。也是眼中屑、遠山華居士、冩幻影請汚老幻、明本信筆とあり。〔讚の中に幻住と有は中峯の菴号なり〕

指月和尚の畫像
壹幅 贊に曰、虛空五彩畫雲端、無相相還眞相看、應物現形福源水、指頭明月影團々、右前禪興明月堂指月和尚肖像、嫡弟仙溪首座、繪之、就于老衲需贊揚、不贅成云、天文、龍集辛亥、季春廿一日。建長修幻道人釋祖台、書于聽松軒下。

玉隱和尚の畫像
壹幅 贊有。文字湮滅して不分明(文明ならず)。

瓶(かめ)の井
院の後ろにあり。鎌倉十井の一つなり。

上杉道合(うへすぎだうがふ)の石塔
方丈の西北に岩窟(いはや)をほり、其の中にあり。十六羅漢を窟中の兩方に切付(きりつけ)たり。中央は釋迦多寶なり。【鎌倉九代記】には、上杉(うへすぎ)安房守入道道合(だうがふ)は、應永元年(1394年)十月廿四日、朝(あした)の霜(しも)と諸共(もろとも)に消行(きへゆき)ける。尸(しかばね)をば極樂寺に送りて、草根一堆の墳(つか)の主(ぬし)となすとあり。然らば此には石塔ばかり有(あ)るか。

明月院の舊跡
道合(だうがふ)石塔の前の畠(はたけ)也。昔は此に憲方(のりかた)の靈屋(たまや)有しとなり。

新編鎌倉志(1685年刊行)に掲載された明月院の図。禅興寺並びに明月院図となっているようにこの頃まだ禅興寺があったようです。左上には上杉道合石塔、右下には山内管領屋敷の名が読めます。

新編鎌倉志(1685年刊行)に掲載された明月院の図。禅興寺並びに明月院図となっているようにこの頃まだ禅興寺があったようです。左上には上杉道合石塔、右下には山内管領屋敷の名が読めます。

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