浄智寺

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浄智寺

(じょうちじ)

往時を思い、寂静にひたれる名所。

北鎌倉駅から鎌倉方面に少し歩き、横須賀線の踏切の手前あたりにある臨済宗のお寺さんです。最盛期には11の塔頭を擁する鎌倉五山第4位の大寺院として繁栄しました。フランス文学者・澁澤龍彦さんの墓所としても有名です。

エリア北鎌倉
住 所鎌倉市山ノ内1402
宗 派臨済宗円覚寺派
本 尊阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来
創 建1283年
開 基北条師時
札 所鎌倉三十三観音第31番 他
文化財等全山(国の史跡)、木造地蔵菩薩坐像(重文) 他
拝 観9:00〜16:30/200円
アクセス「北鎌倉駅」下車、徒歩6分

往時には500人もの人が行き交った鎌倉石の階段は長い年月を経てすり減っています。

往時には500人もの人が行き交った鎌倉石の階段は長い年月を経てすり減っています。

北鎌倉駅から鎌倉方面に少し歩き、横須賀線の踏切の手前あたりにある臨済宗のお寺さん浄智寺。最盛期には11の塔頭を擁する大寺院として繁栄しました。フランス文学者・澁澤龍彦さんの墓所としても有名です

神奈川県鎌倉市山ノ内1402

鎌倉五山第4位の禅寺

東慶寺から少し鎌倉方面に向かったところにあります。全体に大きな空間を感じるのはかつて円覚寺級の大寺院だった鎌倉五山第4位の歴史を物語っていると思います。歴史を経たものが醸し出す独特の漠とした寂しさを感じることがこの寺を訪れる醍醐味だと個人的には勝手に思い込んでいます。浄智寺の独特の雰囲気は鎌倉の他の寺社ではあまり味わえません。

鎌倉を名実ともに日本の首府とした名執権・北条時頼の三男、宗政(1253-1281)の菩提を弔うために子の師時が弘安6年(1283年)、創建しました。実体としては、宗政の妻と宗政の兄である第8代執権・北条時宗によるものであるといわれています。宗政は兄・時宗の信任厚く、モンゴル帝国とその手先となった中国・朝鮮による2度の侵略(元寇)においては、2度目の侵略、弘安の役に備えて筑後守護に任じられています。弘安4年(1281年)、弘安の役は、文永の役に続いて、世界中が敵わなかったモンゴル帝国の侵略軍を日本が撃退したわけですが、その勝利に大きく貢献しつつ、宗政は同年死去。享年29歳でした。

鎌倉時代の最盛期には11の塔頭に総員500名を擁する大寺院でした。江戸時代まで規模を維持していたようですが、関東大震災でそのほとんどを消失し現在の建造物は概ね昭和に再建されたものです。階段として使用できないほどすり減って形を失った階段を見ると、その歴史の深さを感じます。参道は鎌倉石という珍しい石で舗装されています。いくつもの時代をくぐり抜けてきた浄智寺の栄枯盛衰は、過去・現在・未来を象徴する御本尊の三世仏、阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来とつい重なり合ってしまいます。

個人的には北鎌倉に住んでいた文学者、澁澤龍彦さんの墓所として印象が深い場所です。恐れ多くも直接の交流などはもちろんありませんが、著作が好きだったこと、幼少の頃、澁澤さんのご親戚と家族つきあいがあったことで何となく勝手な親近感を覚えてしまうのです。

境内には鎌倉十井の「甘露ノ井」があり、奥には江之島鎌倉七福神のひとつ布袋様もあります。浄智寺の奥は源氏山にぬけるハイキングコースになっていますから、午前中浄智寺で歴史の深みを堪能したら、源氏山ハイキングコースをぶらりと歩いて、銭洗弁天の茶屋で一杯やるのが最高のコースです。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

淨智寺
淨智寺(ぢやうちじ)は、明月院の向(むかふ)なり。金峰山と號す。五山の第四なり。平(北条)の師時(もろとき)建立。師時(もろとき)を淨智寺と號す。法名は道覺と云。寺に牌あり。
開山は宋の佛源禪師、諱は正念大休と號す。文永六年(1269年)に來朝す。『元亨釋書』に傳あり。當寺は、宋の兀菴禪師の開基なれども、後宋に歸る時、附法の弟子眞應禪師壯年なり。故に佛源に言(ことば)を遺す。因て眞應・佛源禪師を開山とも云なり。今寺領六貫百文餘あり。
【鎌倉大草子】に、京の村雲(むらくも)の大休寺の開基妙喆(めうてつ)侍者は、夢蔥國師の法眷にて、源(足利)の直義(ただよし)の歸依僧なり。關東へ下向、淨智寺に住し、大同妙喆(だいどうめいてつ)和尚と號す。悟道發明の人にて、正念に終り給ひし事、寺の舊記に殘れり。
しかれども『太平記』には、曾てしらざる事を、いかなる無智愚盲のわざりやありけん、妙喆(めうてつ)を妙吉(めうきつ)と書、或は愛宕(あたご)の天狗の化したると記し置たりとあり。

外門
昔(むかし)、佛光の筆にて、寶所在近と額有しと也。今は亡(ほろ)びたり。

山門
昔し、解脱門と額有しとなり。今はなし。

佛殿
本尊は釋迦・弥勒・阿彌陀なり。作者不分明(作者分明ならず)。

寺寶

韋駄天
壹軀 宅間法眼が作。

地藏の像
壹軀 運慶が作。

平の貞時の證文
貮通。

鐘樓
門を入左にあり。鐘の銘如左(左のごとし)。

相州金峯山淨智禪寺鐘銘
東海小比丘仁叟碩寛撰
須彌南畔、吠瑠璃樹下、日域、關東道、相模州鎌倉府、金峯山、淨智禪寺、雖爲湘山五峯一員、二百年來、寶殿荒廢矣、而今環寺殘衆相議、而企一宇鼎建之功、鑄小鐘以掛旃、銘曰、鹿山之巽、龜谷之乾、五岳靈地、八州福田、功德成就、淨智同圓、橐龠已奮、模範爰連、華鐘陶鑄、蒲牢完全、雖爲形小、預先禮專、攪凡鳧眠、結聖諦緣、宵分百八、靜慮三千、法規茂々、號令闐々、檀門久遠、宗風永扇、常輝舜日、伏望堯天、十方擧世、祝太平年、慶安二己丑歳、八月初七日、勸進耆舊、龜齡・禪・歴、掌財監寺、是滿、助緣、崇逸、同禪積、同元成、冶 工武州江都住宇多川甚左衞門藤原親次。

開山塔
藏雲菴と名く。佛源の塔には非ず。眞應禪師の塔也。眞應諱は宏海、號南洲。嗣法兀菴(南洲と號す。兀菴に嗣法す)。

甘露井(かんろせい)
開山塔の後(うしろ)に有(あ)る淸泉を云なり。門外左の道端(みちばた)に、淸水沸(わ)き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

盤陀石(ばんだせき)
開山塔の後ろにあり。

正紹菴
佛宗禪師、諱は崇喜、嗣法佛光(佛光に嗣法す)。上野の國の人也。元亨三年六月八日示寂。今此一菴ばかりあり。

正源菴
佛應禪師、諱は妙準、號太平。嗣法佛國。

龍華山眞際精舍
法海禪師、諱は靜照、號無象。嗣法石溪。

正覺菴
佛性禪師、諱は妙受、號天菴、嗣法佛國。

楞伽院
竺仙和尚、諱は梵僊、嗣法古林(古林に嗣法す)。明州の人。元德二年來朝、貞和四年戊子七月十六日示寂、世壽五十七。

大圓菴
別傳和尚、諱は妙胤、嗣法虗谷。

同證菴
心聞和尚、諱は令聞、嗣法南峯。

正印菴
大同和尚、諱は妙哲、嗣法佛國。

興福院
大見和尚、諱は妙喜、嗣法大年。

福生菴
義耕和尚、諱は可田。右塔頭の名、『關東五山記』に有といへども、皆廢亡す。

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浄智寺” に対して1件のコメントがあります。

  1. 栃木県宇都宮市上戸祭町527 石塚好一 より:

    コメントではなく質問になると思いますが、妙喆侍者のことをお聞きします。私は宇都宮に住む者ですが、
    妙喆侍者(宇都宮では大同妙哲禅師とか、妙吉侍者と呼んでいます)が、この妙喆侍者は浄智寺でなくなったのでしょうか? 宇都宮の伝法寺に妙喆禅師の墓 つけたり墓碑 があり、貞和5年(1349年)に死亡したと刻まれています。もし、どなたかご存知の方がおられましたら、教えていただきたいと思います。

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