〈鎌倉十井〉六角ノ井
目 次
〈鎌倉十井〉六角ノ井
(〈かまくらじっせい〉ろっかくのい)
源為朝伝説の井戸
身長2m超、切れ上がった眼に天下一の強弓。平清盛始め名だたる武将たちが怖じ気づいたという伝説の武人の矢が海を越えて刺さったといわれる井戸です。
エリア由比ヶ浜・材木座
住 所鎌倉市材木座6-23-7
アクセス「鎌倉駅」よりバス「飯島」下車、徒歩5分
神奈川県鎌倉市材木座
鎌倉十井のひとつ。鎌倉と逗子の境にあります。光明寺前の道を逗子マリーナ方面に歩き、トンネルの手前を右に入ってしばらく歩くと民家の脇に見えてきます。
平安末期の武将、源為朝(1139-1170?)の伝説が残る井戸です。保元の乱に敗れ、伊豆大島に配流された為朝がいた矢が海を越えて突き刺さった場所から水が出たといわれています。これが六角ノ井の為朝伝説です。
源為朝は源為義の子で、頼朝の父義朝とは兄弟です。七尺(2m10cm)の巨漢にして眼は切れ上がり、左腕が右腕より4寸(10cm)も長いという圧巻の武人であり、無双の弓矢の達人だったと伝わります。
保元の乱でも多勢を持って攻め寄せる平清盛の軍勢が為朝の弓一本に怖じ気づいて前に進めなかったという神のごとき武威の人でした。破れた為朝は近江にて捕らえられ京へと護送されます。その時、天下一の武人を一目見ようと群衆はおろか、天皇まで見物に訪れたといわれています。
保元の乱で兄弟である源義朝、平清盛らと戦い、敗れた為朝は伊豆に流されますが、伊豆大島だけでなく鬼の子孫が住む鬼ヶ島も平らげ、伊豆七島を支配します。最後は、為朝追討の院宣を受けた追討軍に攻められ自害したといいます。
自害の直前、せめて一矢と放った強弓によって追討軍の船が一艘沈没しました。追討軍は為朝を恐れて自害の報を聞くまで上陸できなかったそうです。並みいる強者たちも恐れおののいた男、源為朝の伝説を感じることがこの井戸を訪れる最大の魅力となっています。
鎌倉十井についても触れておきます。江戸時代の中期以降になって鎌倉は観光地として賑わうようになりました。それに伴って「七切通し」「五名水」「十橋」などと名数によって名付けられることが増えました。その中のひとつが「鎌倉十井」です。じっせいと読みます。
鎌倉の山の地層は凝灰岩といわれ水が豊富に湧き出ます。筆者が子供の頃に住んでいた鎌倉の家にも井戸があり、その井戸をポンプでくみ上げ蛇口に繋いで生活水としていました。夏でも冷たくて美味しかったと記憶しています。断水でも我が家はいつも通り水が出ていました。
ただ、鎌倉全体としては水質はあまり良くなかったと言われています。そのため、美味しい水の出る井戸は大切にされ、「五名水」「十井」などと呼ばれたそうです。
鎌倉十井は以下のとおりです。