箱根神社

目 次

〈箱根〉箱根神社

(はこねじんじゃ)

源頼朝の崇敬を受けた箱根権現

古代から山岳信仰の聖地であり、757年(天平宝字元年)以降は神宮寺の箱根権現として敬われます。源頼朝の厚い崇敬を受けたことから、同時代のみならず後世の武士からも厚く信仰されました。芦ノ湖に面した美しい境内は何度でも訪れたい神々しい魅力があります。

エリア箱根
住 所神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1
祭 神箱根大神(はこねのおおかみ/総称)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
開 山聖占、万巻
創 建紀元前506-394、757年
アクセス「湯本駅」よりバス「元箱根」下車、徒歩10分
公式HPhttp://hakonejinja.or.jp/

箱根神社の本殿。来る度に清々しい気分になります。

箱根神社の本殿。来る度に清々しい気分になります。

〒250-0522 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80−1 箱根神社

古代から山岳信仰の聖地であった箱根

箱根の山々は古代より山岳信仰が盛んであり、信仰の中心は箱根山の最高峰、その名のとおり神の山といわれた神山(かみやま/標高1,438m)です。考昭(こうしょう)天皇元年から同83年まで在位された第5代・考昭天皇(紀元前506-394)の時代に聖占(しょうぜん)上人が神山を御神体として神仙宮を駒ケ岳に開いたことが山岳信仰興隆の大きな要因となったようです。現在でも駒ケ岳山頂には箱根神社の元宮があります。

孝昭天皇の御代というと、いまから約2,400年前です。約3,000年前に神山の北西斜面において大規模な水蒸気爆発が発生し、これにより大涌谷、仙石原、芦ノ湖が誕生しましたから、それより約600年後ということになります。

現在のように近代建築物が立ち並ぶこともなく、コンクリートの土木工事もなされず、鬱蒼とした自然とそれに溶け込んだ人や建物だけがあった孝昭天皇の御代、この辺りはそれは神々しく美しい景色だったことでしょう。

神山は天津神籬、駒ケ岳は天津磐境

箱根神社公式HP、元宮の項には以下のようにあります。
「聖占仙人(しょうぜんしょうにん)が、神山に鎮まります山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬(あまつひもろぎ)とし、駒ヶ岳を天津磐境(あまついわさか)として祭祀したのに始まる。」

古代の日本人は、人造による社殿に神を祀らず、山・木・岩・石などの自然物を神宿るものとしていました。天津神籬(あまつひもろぎ)とは、神社や神棚以外の場所に神を迎えることをいいます。上記の文でいうと、神山を神を迎える依り代(神霊が依り憑く神体)としたということです。

磐境とは、簡単に申せば祭祀場ということです。神山を神の宿る場所とし、駒ケ岳を祭祀場としたということになります。以来、神山、駒ケ岳を中心として箱根山は山岳信仰の一大霊場となりました。

万巻上人が社殿を建立

神山を天津神籬とし、駒ヶ岳を天津磐境として祭祀したということに基づいたことでしょうが、奈良時代初期の757年(天平宝字元年)に万巻上人により現在箱根神社のある場所に里宮が建てられました。

奈良時代の僧である万巻上人(養老年間-?)は、東国三社の一つであり神武天皇元年創建という東国随一の古社、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の神宮寺を建立した人物です。上人は、757年(天平宝字元年)、箱根山の山岳信仰を束ねるという朝廷の命を受け、箱根山に入山。神山や駒ケ岳などにおいて修行を行なって箱根三所権現を感得し、霊夢により現在の箱根神社の地に社殿を建立しました。万巻上人は僧侶であり僧侶の感得により神仏習合の社殿が建立されたわけですから、現在の神道のみによる神社とは違い箱根権現です。

万巻上人は箱根神社の社殿建立の他に、芦ノ湖畔にある九頭龍神社も建立しています。万巻上人が箱根山において修行中に、芦ノ湖に住み村人たちを苦しめていた毒龍(九頭龍)を法力により調伏し、九頭龍は万巻上人に帰依したため九頭龍神社として祀られることとなりました。神社の本宮は箱根神社の近くにあり、箱根神社の境内に新宮があります。

箱根権現

この頃の箱根神社は、仏教伝来とそれに伴う神仏習合により古代から続いた山岳信仰が仏教、修験道と結びつき箱根権現と呼ばれていました。権現というのは、日本の神々は仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想を表わしています。約1,100年後に明治維新が起り、神仏分離が行われ箱根神社となりました。

これは想像になりますが、鎌倉の鶴岡八幡宮や江ノ島において、明治維新の神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈運動により貴重な仏教関連施設が破壊され、神宮寺から神社へと変更させられた歴史と同じように、ここ箱根権現でも同様の悲しい行為があったのではないかと考えます。

箱根神社 境内

箱根神社の社殿は駒ケ岳山麓、芦ノ湖に面して建ちます。しかし、元箱根を訪ねればすぐわかるようにいわゆる神社の社殿近くだけでなく、芦ノ湖畔にもいくつもの鳥居があり、全部で6つあります。

第一鳥居は国道1号線上、元箱根港バスのりば前にあり、皇太子殿下御成婚を祝して1993年(平成5年)に建て替えられました。第一鳥居から国道1号線を箱根神社に向かって進み、元箱根交差点を過ぎると第二鳥居があります。

そのまま国道1号線をいくと道沿い右手に第三鳥居がみえてきます。ここからがいわゆる境内という印象と思います。第三鳥居をくぐると杉木立の参道が始まり、箱根神社の清浄な気を感じさせられます。

途中小さな第六天社を拝しつついくと手水舎、第四鳥居、矢立杉などがあります。境内には多くの杉が植えられていますが、第四鳥居手前にある樹齢1,200年という矢立杉は群を抜いて存在感があります。

平安時代を代表する武人、征夷大将軍 坂上田村麻呂は蝦夷平定に際し、また源頼朝が最も尊敬すべき祖先とした源頼義は前九年の役に際して表矢(おもてや)を献じ武運長久を祈願しました。両将軍とも大戦に勝利し、所願成就したため後世の武将たちもそれに習ったといいます。源頼義(988-1075)は河内源氏の当主として実質的な鎌倉と源氏の始まりともいえる武将です。

第四鳥居をくぐり約90段の石段を登ると本殿や九頭龍神社新宮があります。石段の途中には日本三大仇討の一つ、曽我兄弟の仇討ちとして現在でも知られている曽我兄弟を祭神とする曽我神社があります。

本殿は、樹々に囲まれ寂静な空気にあふれています。本殿背後には本州最北の姫沙羅(ひめしゃら)群生林があり県指定天然記念物に指定されています。

芦ノ湖の写真によく登場する湖上の鳥居は平和の鳥居といい、1952年(昭和27年)今上陛下の立太子礼に際して建立されました。

本殿右手には九頭龍神社の新宮があり、その手前には御神水である龍神水が流れています。箱根大神の鎮座する箱根山を源とするありがたいものとして、容器に入れて持ち帰る方々がよくみられます。

他に、宝物殿、箱根山七福神の恵比寿社、弁財天社、万巻上人奥津城、殉国学徒慰霊碑があり、広く美しい境内は見所がたくさんあります。

源頼朝と箱根神社

源頼朝と箱根権現(箱根神社)といえば、石橋山の合戦に敗れた頼朝を箱根権現がかくまったこと、頼朝が走湯山権現、箱根権現を篤く敬い、双方を参拝する二所詣を行ったことが知られています。こういったことから後世の武家からも箱根権現は崇められることとなりました。

源頼朝以前から深かった源氏とのゆかり
上記のように箱根権現神社は古来より関東総鎮守であったわけですから、源頼朝を輩出し東国にゆかりの深かった武家の名門、河内源氏と親交があったことは想像に難くありません。源頼朝の挙兵から鎌倉幕府滅亡までを記録した鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に、源頼朝と箱根神社の関わりをみてみます。

源頼朝の挙兵時に箱根権現別当職であった行実の父 良尋は、源頼朝の父 義朝、祖父 為義らと親交があったため、子の行実は箱根権現(箱根神社)の別当となることができました。別当となり京都から箱根に向かう際には源為義や義朝から「東国の輩は行実の催促には従うように」という下文を賜っています。

こういった縁から、源為朝・義朝が平氏に敗れ頼朝が伊豆に配流となってからも、頼朝のために祈祷を行ない源氏への忠義を尽くしました。

石橋山合戦。源頼朝を助けた箱根権現
1180年(治承4年)以仁王の令旨を奉じて挙兵した源頼朝は、伊豆国目代山本兼隆を討取ることには成功しますが、その後の石橋山の合戦(現 神奈川県小田原市)に敗れ、山中に逃げ込みます。石橋山において頼朝敗れるの報に接した行実は嘆き憂い、弟達の中でも武芸に優れた永実に食事を持たせて山中にあった頼朝の陣に遣わしました。

8月24日、永実は頼朝に会う前に北条時政を訪ね、頼朝の動向を訪ねました。時政は頼朝は未だ敵の包囲網を逃れていないと嘘をいい、永実を警戒しました。永実は、それならば時政もまた生きてここにはいないだろうと返し、時政は大いに笑い頼朝の御前に連れて行きました。

永実の持参した食事は、敗戦と逃亡を続ける頼朝一行にとって素晴らしい献上品となり、土肥実平は頼朝が世を治めたならば永実を箱根山別当職にすべきでしょうと進言し、頼朝はこれを許しました。

その後、永実の案内により頼朝一行は箱根山(箱根権現)に到着し、人目を避けて頼朝を永実の自宅に案内しました。

石橋山合戦の翌日8月25日、平氏方の大将 大庭景親は頼朝の逃げ道を塞ごうと各所に軍勢を分散させていました。箱根山別当職 行実の弟に良暹(りょうせん)という者がおり、頼朝が討ち取った山木兼隆の祈祷師を務めていました。

良暹は行実、永実に背いて頼朝を襲撃しようと企み、これを知った永実は行実と頼朝に報告します。行実は良暹の武勇は大したことはないが、平氏方の大庭景親らと合流すると厄介なことになるため、頼朝に対して早々に逃げるよう進言します。頼朝一行は、永実とともに箱根路を土肥郷(神奈川県湯河原町)へと向かいました。この後、頼朝は真鶴港から海路を安房国へと逃げ延びます。

頼朝は房総半島において再起し、父祖伝来の要害の地、鎌倉へと入り治承・寿永の乱を平定、京都の君威に対して武威の都、鎌倉を創成します。

二所詣
源頼朝は、伊豆配流時代から源氏再興を祈願し、挙兵時にも関わりの深い走湯権現(現 伊豆山神社)と箱根山(箱根権現)の二所権現と三島社(現 三嶋大社)を参拝する二所詣を行いました。

『吾妻鏡』に最初に登場するのは1188年(文治4年)正月です。以降、同書には頼朝が度々二所詣を行ったことが記されています。1188年(文治4年)正月の記述を現代文にすると次のようなものです。

源頼朝はこの後も二所詣を続け、当然寄進なども行ないました。箱根権現は鎌倉時代のみならず永きに渡り武家の厚い崇敬を受けました。

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