畠山重忠邸跡

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畠山重忠邸跡

(はたけやましげただていあと)

伝説の武将

頼朝挙兵から鎌倉幕府創設まで多大な貢献を果たした伝説の鎌倉武士。廉直な人柄は人望を集め、戦場での知略とその怪力は数々の伝説を生みました。

エリア駅周辺・八幡宮
住 所鎌倉市雪ノ下3-2
アクセス鎌倉駅下車、徒歩10分

 

坂東武士の鏡として今日まで崇敬される武将です。忠義に篤く、質素を好み、礼儀正しく廉直、桁外れの怪力、先を読み機を見るに敏な知略、頼朝の大きな進軍の先陣をことごとく務めた風格、資料からは欠点など見当たらない正に伝説の名将です。

その重忠の屋敷がここにあったといわれています。鶴岡八幡宮から頼朝の墓方面に出ると鳥居のすぐ側に石碑があります。

畠山重忠は平安時代末期の1164年(長寛2年)に生まれ、1205年(元久2年)に42歳で没しました。頼朝は死に際して頼家に対し、自分の死後は大名や位の高家に惑わされることなく、畠山重忠をもって国家を鎮守するようにとの遺言を残しています。

平治の乱で源義朝が敗死して以来、父の重能は20年に渡り平氏に従っており、1180年頼朝が挙兵した時、重能が大番役で京都に上っていたため17歳だった重忠は平氏方として石橋山で頼朝と戦いこれを破ります。

続いて河越重頼、江戸重長らとともに挙兵にいち早く参加した三浦一族の本拠、衣笠城を攻め、当主の三浦義明を討ち取ります。

その後、河越重頼、江戸重長とともに長井渡しにおいて頼朝に帰伏し、直後の頼朝相模入りでは先陣を務めました。

1184年宇治川での木曽義仲との合戦、平氏との一ノ谷の合戦、1185年の壇ノ浦の戦いと活躍し、1189年の奥州合戦でも先陣を務めました。1190年には衆人の注目の的であった、頼朝上洛軍の先陣を務めるという栄誉に浴しています。

一ノ谷の合戦ではただでさえ伝説となっている鵯越越えにおいて、愛馬を気遣い馬を背負って降りるというさらなる伝説を残しています。合戦以外でも永福寺の造営では巨石を一人で運ぶなどの記述が『吾妻鏡』に記録されています。

1204年(元久元年)11月、重忠の子、重保が北条時政の後妻であった牧の方の娘婿、平賀朝雅と酒席において争いました。これに遺恨を持った牧の方が夫である時政に重忠・重保は謀反の志しがあるためこれを討つよう求め、時政は義時、時房に相談しましたが、二人は忠実な重忠が謀反を企てるわけがないと反対したそうです。

それでも執拗に迫る牧の方の策略によりついに重忠・重保に対して討伐が決定され、重保は鎌倉において殺され、重忠は武蔵国二俣川において北条義時率いる数万騎に討たれました。

数ある歴史書に残されている畠山重忠の伝説の中でも筆者が最も好きなのはこれです。

1195年、頼朝は東大寺落成供養のため2度めの上洛をしました。頼朝とともに上洛した畠山重忠は、明恵上人に会うため4月5日現在の京都市右京区にある栂尾山に向かいました。

重忠が近くまで来ると煙塵が舞い上がります。洛中火事かと騒ぐ弟子に上人はこう言ったそうです。「名のある勇士が近づいている。その気が現れているのだ」。重忠に会った弟子たちは上人の言葉に納得したといいます。

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