永福寺跡
目 次
永福寺跡
(ようふくじあと)
頼朝肝いりの大寺院「永福寺」を偲ぶ
鎌倉幕府が開かれたといわれる1192年、頼朝は義経など奥州合戦の戦死者を供養するために永福寺を建立しました。
エリア北東
住 所鎌倉市二階堂178
アクセス「鎌倉駅」よりバス「大塔宮」下車徒歩10分
鎌倉幕府が開かれたといわれる1192年、頼朝は義経など奥州合戦の戦死者を供養するために永福寺を建立しました。
神奈川県鎌倉市二階堂178
1192年、源頼朝は奥州合戦で戦死した弟・義経や藤原泰衡、その他の戦死者たちの霊を供養するために永福寺を建立しました。いくつもの建造物が並び、本堂前には立派な庭園があったようです。
昭和40年代から鎌倉市が土地の取得をすすめて発掘調査を行っており、12万点の屋根瓦などが出土し、様々な調査から大寺院であったことがわかっています。頼朝や政子、頼家、実朝を始め歴代の将軍が法要に訪れた格式ある寺院でした。
鎌倉宮右側の道をしばらくいくと、鎌倉カントリーテニスクラブの隣に永福寺跡の碑が建つ、その背後が跡地となっています。鎌倉時代を象徴するような寺院でしたが、1405年の火事で焼失したまま復興されることなく現在に至っています。
鎌倉市では、鎌倉時代の重要な史跡「史跡永福寺跡」として一般公開すべく整備を進めています。現在は石碑が建つのみで跡地は入ることができませんが、一般公開の際には価値ある見所となるでしょう。鎌倉宮、瑞泉寺、護良親王墓などとともに石碑を確認されるとよいと思います。
『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述
永福寺舊跡
永福寺(えうふくじ)舊跡は、土籠(つちのろう)の北の方なり。昔の二階堂の跡なり。里俗は、山堂(さんだう)とも光堂(ひかりだう)とも云ふ。田の中に礎石(そせき)今尚を存す。俗に四石(よついし)・姥石(うばいし)など云あり。
『東鑑』に、文治五年(1189年)十二月九日、永福寺の事始也。奧州に於て、泰衡(やすひら)管領の精舍を御覽ぜしめ、當寺の華構を企(くはた)てらる。彼の梵閣等並宇之中(宇を並ぶる中)、二階堂あり。大長壽院と號す。專らこれを摸(も)せらるに依て、別して二階堂と號す。建久三年(1192年)十一月廿日、營作已に其の功を終ふ。御臺所(みだいどころ)御參(をんまいり)とあり。其の外池(いけ)をほり、阿彌陀堂・藥師堂・三重塔・御願寺等建立の事あり。
元久二年(1205年)二月、武藏の國土袋の郷を、永福寺の供料に募(つの)らるとあり。貞永元年(1232年)十一月廿九日、賴經將軍、永福寺の林頭の雪覽給(みたまは)ん爲に渡御、倭歌の御會あり。但し雪氣雨脚に變ずるの間だ、餘興未盡(未だ盡ず)して還御す。路次にて判官基綱(もとつな)申して曰く、 雪爲雨無全(雪雨に爲に全き無し)。武州泰時(やすとき)これをきかしめ給ひ、仰(をほせ)られて云く、「あめの下にふればぞ雪の色も見る」とあれば、又基綱(もとつな)、「三笠(みかさ)の山をたのむかげとて」とあり。
『梅松論』に、義詮(よしあき)の御所(ごしよ)、四歳の御時、大將として。御輿(こし)にめされて、義貞(よしさた)と御同道有て、關東御退治以後は、二階堂の別當坊に御座ありし、諸士(さむらひ)悉く四歳の若君(わかきみ)に屬(ぞく)し奉(たてまつ)りしこそ、目出(めでた)けれとあるは、此寺の別當坊也。