天野遠景
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天野遠景
(あまの とおかげ 生没年不詳)
源頼朝挙兵から治承・寿永の乱に活躍するも晩年は不遇
天野遠景は平安末期から鎌倉初期の武将。源頼朝挙兵以来の武将として治承・寿永の乱を通じて活躍し、平氏追討の大功ある十二人のうちに選ばれた人物(1185年(文治元年)3月11日)です。鎌倉幕府の九州(鎮西)奉行である初代九州惣追補使となり、10年を過ごします。
その後は不遇であったようです。1199年(建久10年)源頼朝死去とともに出家し蓮景となり、1207年(承久元年)6月2日、挙兵以来の勲功を挙げて恩賞を望んでいます。
天野遠景は藤原北家に押されて振るわなかったが多くの名族を輩出した藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。伊豆国田方郡天野に住んだことから天野氏を名乗りました。
工藤氏は著名な武家である吉川氏と同族でありまた、子孫には戦国時代、武田二十四将のひとりとして信玄を支えた内藤昌豊がいます。
『吾妻鏡』にみる天野遠景
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の記述をいくつかひろってみます。
1180年(治承4年)8月20日「源頼朝挙兵、相模へ出発」
三浦義明の一族をはじめ、源頼朝の挙兵に同意する意志を示している武士たちが遅参しています。海路を隔てて風波を凌ぎ、あるいは遠路苦労しているからであろう。頼朝はまず伊豆・相模両国の御家人だけを率いて伊豆国を出発、相模国土肥郷に向けて出発した。付き従ったのは以下の武士である。
北条時政、北条宗時、北条義時、北条時定、安達盛長、工藤茂光、工藤親光、宇佐美助茂、土肥実平、土肥遠平、土屋宗遠、土屋義清、土屋忠光、岡崎義実、岡崎義忠(佐奈田与一義忠)、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、天野遠景、天野政景、宇佐美政光、宇佐美実政、大庭景義、豊田景俊、新田忠常、加藤景員、加藤光員、加藤景廉、堀親家、堀助政、天野光家、中村景平、中村盛平、鮫島宗家、七郎宣親、大見家秀、近藤国平、平佐古為重、那古谷頼時、沢宗家、義勝房成尋、中惟重、中八惟平、新藤俊長、小中太光家
彼らは皆、頼朝が頼りとする武士たちであり、それぞれ命を受ければ家も親も忘れて戦う覚悟という。
1180年(治承4年)10月19日「伊東祐親捕縛」
伊東祐親法師は平維盛に味方するため、伊豆国鯉名泊(現 静岡県賀茂郡南伊豆町)から船出しようとしたところを、天野遠景がこれを見つけ生け捕りにした。今日黄瀬河の源頼朝の御宿所に連行した。(以下、略)
1184年(元暦元年)6月16日「一条忠頼誅殺」
一条忠頼(甲斐源氏当主武田信義の嫡男)が威勢を振るい世を乱そうとしているとの噂が聞こえてきた。源頼朝もこれを察し、今日、忠頼を御所において誅殺するところとなった。夕方、頼朝は西侍にお出ましになり、忠頼は召されて参上、頼朝と向き合って席に着いた。その場には主だった御家人たちが数人列席した。
献盃となり工藤祐経が銚子を持って御前に進んだ。祐経はかねてから討手と決められていたが、特別な武将との雌雄に少々思案したのであろう顔色が変わった。小山田有重はその様子を見て座を立ち「このような席での御酌は、年寄の役割である」といって祐経の銚子をとった。すると有重の子稲毛重成、重成の弟、榛谷重朝も盃を肴を手にして忠頼の前に進んだ。有重は二人の息子にいった。「給仕の際の故実では、指貫は上括とするものだ」。二人が手にした物を置き、括を結んでいる時、天野遠景が別の御命令を承っており、太刀を手にするや忠頼の左側に進み、瞬く間に忠頼を誅殺した。この時、頼朝は背後の障子を開き奥に入られた。
その後、忠頼の共侍である新兵太とその甥、武藤与一、そして山村小太郎が主人が殺害されたのを庭でみており、それぞれ太刀を取って侍の間に駆け上がった。事はただちに起き、その場に祗候していた人々は騒ぎ、三人によって多くの人が傷を受けた。三人は頼朝の寝殿近くまで進んでいた。重成・重朝・結城朝光らが彼らと戦い、新平太、与一を討ち取った山村は遠景と戦おうとした。遠景は山村と向き合うと、俎(まないた)で山村を打った。山村は縁の下に転倒、遠景の郎従がその首を取ったという。
1185年(文治元年)3月11日「源頼朝による平氏追討の大功12人」
※九州を目前にした平氏追討軍は兵糧の枯渇などから士気が上がらず、大将の源範頼は叱咤激励を源頼朝に依頼した。この項はその返書です。
源頼朝は範頼に返書を遣わされた。「関東から差し遣わした御家人たちはことごとく大事にされたい。特に千葉常胤は老身を顧みず苦難を堪え忍んでおり神妙である。傍輩より一段と褒め称えなければならない。およそ常胤の大いなる勲功は、生涯報謝を尽くすことができない。」と記されていたという。また、北条義時、小山朝政、小山宗政、藤原親能、葛西清重、加藤景廉、工藤祐経、宇佐美祐茂、天野遠景、新田忠常、比企朝宗、比企能員、以上十二人にはそれぞれに丁重な御書が遣わされた。この十二人は西海に在って特に大きな戦功をあげていたからである。北条義時への書には「心を一つにして豊後国へ渡海したことは神妙であり満足している。伊豆・駿河などの御家人は同じくこの旨、承知するように」と記されていたという。
1203年(建仁3年)9月2日「比企能員誅殺」
丁丑〜(中略)〜天野蓮景(遠景)、新田忠常をお供として、荏柄社の前でまた馬を止めて両人にこういった「比企能員が謀反を企てた。今日追討する。討手を勤めよ」。蓮景がいった「軍勢を派遣することはできません。御前に能員を招き寄せ、誅殺されるのがよいでしょう。あの老人なら何の問題もありません」。〜(中略)〜蓮景、忠常は腹巻を着けて西南の脇戸の中で待ち構えた。少しして能員が入ってきた。〜(中略)〜惣門を入り、廊の沓脱に上がって妻戸を通り北面に向かおうとした。その時、蓮景、忠常が立ち向かい能員の左右の手を掴み、築山の麓の竹やぶに引き倒して躊躇なく誅殺した。〜(以下略)〜。
1207年(建永2年)6月2日「恩賞の請願」
天野蓮景(遠景)が款状を捧げ、北条義時に進上した。恩賞の所望であった。治承4年8月の山木合戦より以降の度重なる勲功、十一か条の述懐が数え上げられ記されていた。大江広元が源実朝に取り次いだ。