鎌足稲荷社
目 次
鎌足稲荷社
(かまたりいなりじんじゃ)
鎌倉という地名の由来のひとつ
夫れ相模の国鎌倉は、郡の名にして、大織冠鎌子丸(藤原鎌足)の時、霊夢によって、鎌を埋むの地なり。この故に郡の名とす。
エリア浄明寺・十二所
住 所鎌倉市浄明寺3-8(浄妙寺右手の丘)
浄妙寺脇の岡の上にたつ鎌足稲荷社。
鎌倉という名の由来には諸説があります。そのひとつが、645年(大化元年)中大兄皇子(天智天皇)とともに蘇我入鹿を討ち大化の改新を成し遂げた藤原氏の祖、藤原不比等(659-720)の父、藤原(中臣)鎌足(614-669)ゆかりの説です。
藤原鎌足は乳児の時、稲荷大神から鎌を授けられ、常にお護りとして身につけていたそうです。大化の改新を成し遂げた鎌足は、翌646年(大化2年)東国に向かい相模国由比の里(現在の鎌倉市由比ケ浜)に逗留しました。
その夜、神のお告げがあり「あなたに鎌を授けて守護してきたが、入鹿討伐という宿願を成し遂げたいま、授けた鎌を我が地に奉納しなさい」と言われた鎌足は、お告げに従ってこの地に鎌を埋納しました。この逸話から「鎌倉」という地名がついたといわれています。
なお、鎌足が鎌を埋めた地の伝説は2か所あり、ここ浄明寺と大蔵の松ヶ岡です。
中臣氏、藤原氏は関東の出身
藤原氏といえば、日本の歴史において最大の一族であり、平安・京都、飛鳥・奈良のイメージが強烈で子供の頃から、「西の貴族」という印象を持っていました。そんな藤原氏の氏神は建御雷神(たけみかずちのかみ)であり奈良の春日大社に祀られています。
もう一歩進んでみると、建御雷神は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に鎮座されていることがわかります。鹿島神宮の創建は紀元前660年、春日大社は約1400年後の768年に創建されており、鹿島神宮から建御雷神を、千葉の香取神宮から経津主神を勧請して創建されています。春日大社の公式HPにも「鹿島神宮から建御雷神が鹿に乗ってやってきた」と書かれています。だから、奈良は鹿なのですね。神も鹿も関東から来たのでした。
そもそも、旧石器時代〜縄文時代まで日本の中心は関東・中部であり、中部・関東以東に全人口の9割が住んでいました。近畿以西は人口比で1割に過ぎず、弥生時代になって、畿内は関東・中部と同等の人口密度となっていきます。縄文時代はいまより暖かく、北海道〜東北にも縄文の遺跡が数多く発見されています。青森県の三内丸山遺跡などは500人以上の大規模集落で、1万6500年前につくられた見事な縄文土器が出土し、栗の栽培も確認されています。
蛇足ですが、この時代から北海道には今と同じように日本人が住んでいました。アイヌは12〜13世紀に入ってきたと言われています。アイヌを先住民族などと書いた、「アイヌ新法」をつくって補助金出していますが、大きな間違いです。先住民族ではないのですから、早急に廃してもらいたいものです。アイヌ協会が認定した人が「アイヌ人」というおかしな話です。このあたりは、アイヌ文化の専門家で自身もアイヌである砂澤さんという方が本やネットで情報を発信されています。ご覧になってみて下さい。
話がそれてしまいました。関東・中部以東に栄えた縄文文化は「日高見国」という強大な国をつくり、寒冷化に伴って西を支配下においていきました。平安時代初期(815年)に作られた「新撰姓氏録」では、中央に住む1182の氏族を神別、皇別、諸藩の3つにわけています。神別とは神武天皇以前からある氏族で、ここに藤原、中臣、物部、大伴などが分類されています。皇別は神武天皇以降に天皇家から別れた氏族。諸藩は、渡来系です。
ちなみに、渡来系は「朝鮮半島から来た」とすりこまれています。確かに朝鮮半島を「経由」してきていますが、日本最大の渡来系氏族である「秦氏」は朝鮮人でも中国人でもありません。応神天皇の御代に弓月国から18000人を受け入れたとあります。弓月国はこの時代のいわゆる中国王朝よりもっと西方にあるユダヤ系の民族です。ですから、事実として秦氏はユダヤ系です。中朝では、これも事実として歴史は自分たちに都合よくつくるものというのが常識ですから、彼らがからんでいたら、すべてを疑ってきちんと確認しましょう。
現代では、中国人、朝鮮人と日本人はDNAが大きく異なることがわかっていますから、記紀(『古事記』、『日本書紀』)は今に繋がっているということを実感し(レヴィ・ストロースもいっていた)、歴史は小説という感じの国に生まれなくてよかったと心底ありがたく感じます。
ということで、藤原氏の出身は常陸国(茨城県)の鹿島です。だから、中臣鎌足の足跡が比較的近い鎌倉にあるのはとても自然なことなのです。昔の関西の人が「箱根から先には猿しか住んでいない」などというのを聞いたことがあります。日本は東から始まったというあたりまえの教養もない人の発言です。今思えば、言っている本人こそ、猿ですね。
日本人は何かと京都を日本文化の代表のようにいいますが、先程述べた、応神天皇の御代に弓月国からきた18000人のユダヤ系の渡来人は、応神天皇、仁徳天皇があたたかくもてなし、山城国に土地を与えました。代表的なのは映画で有名な太秦(うずまさ)です。これも、『日本書紀』に書いてあります。その後も、聖徳太子の時代に秦河勝が活躍するなど、京都は秦氏が活躍して街を作ります。京都はユダヤ系渡来人が大きな影響力を発揮して作った街です。
楽しい連想でした。鎌倉散歩の醍醐味です。
鎌足が鎌を埋めた土地
関東八か国の総追捕使として鎌倉を支配した鎌足の子孫、染谷時忠は由比ケ浜に屋敷があったとされています。奈良時代、今小路西遺跡(現在の御成小学校)に郡衙があったといわれていますから、御成から由比ケ浜にかけての一帯がこの時代、鎌倉郡における政治の中心であったのでしょう。
藤原鎌足とも繋がる鎌倉は平安中期には平直方の地となり、その後源頼義の武勇に頼った平直方が娘を頼義に嫁がせ、頼義は相模守に任じられたのを機に平直方から鎌倉の屋敷を譲られ、以後、代々源氏ゆかりの地として頼朝の鎌倉入りを待つこととなるのです。
大化の改新により豪族から天皇家に主導権を奪い返した藤原鎌足が鎌を埋めた土地、鎌倉は源頼朝による武家政権誕生の地となり新たな日本のグランドデザイン草創の地となるのです。そしてさらに承久の乱によって天下を併呑していきます。