稲村ヶ崎
目 次
稲村ヶ崎
鎌倉陥落の象徴、新田義貞の龍神伝説
1333年5月21日、鎌倉を包囲した新田義貞の倒幕軍は天然の要塞である鎌倉の固い守りに苦戦しますが、この稲村ケ崎を伝説となった龍神の助けとともに突破し、鎌倉幕府を倒すのです。
エリア長谷・腰越
住所鎌倉市稲村ケ崎
アクセス江ノ電「稲村ケ崎駅」下車、徒歩3分
元弘3年(1333年)、新田義貞は挙兵からわずか2週間で鎌倉を包囲します。部隊を3つにわけて総攻撃を敢行しますが、天然の要害に守られた鎌倉の守備は堅く、化粧坂切通し、極楽寺坂切通し、巨副呂坂切通しの3方からの攻撃はいずれも撃退されてしまいます。
5月21日、軍勢を立て直した新田義貞は稲村ケ崎を突破し、鎌倉へとなだれ込みました。挟み撃ちにされた幕府軍は壊滅し、執権北条高時ら北条一族と残党は東勝寺にて自害します。
伝説によると、義貞が太刀を海に投じると龍神がこれに応じ、大きく潮が引いていき幕府の水軍も沖へと流され、義貞軍は浜を渡って鎌倉へと進軍したとされています。現代の研究では、元弘3年(1333年)5月21日の未明は干潮であったことがわかっています。
この伝説には様々な意見があるようですが、いずれにしてもこの新田義貞はこの稲村ケ崎を突破して鎌倉へと進入し、鎌倉幕府を倒したのです。何度稲村ケ崎の海浜公園に行っても、ついつい義貞が渡ったといわれる水際を見てしまいます。天気がよければ腰越海岸越しに、江之島、富士山をのぞむことができます。
「1333年5月21日は干潮であったことがわかっています」と書いてありますが、干潮は毎日あります。
また、5月21日は旧暦なので、現代のカレンダーでは違う日になります。7月4日、7月11日という説がありますが、いずれも潮回りは大潮ではありません。
確認の上、訂正をお勧めします。
ご指摘ありがとうございます。
5月21日未明の「未明」が抜けていました。小川清彦さんという天文学者によると、5月21日未明は干潮だったと証明されているようです。
確かに、干潮は毎日ありますから未明、が抜けているとおかしいです。ありがとうございました。