鎌倉七切通し

中世を肌で感じる古道

古道に惹かれるというのは理屈抜きの本能的なものがあり、なんだか歴史に触っているような感触があります。鎌倉にも切通しといわれる古道があり、江戸時代、水戸光圀編纂による『新編鎌倉志』により七切通し(鎌倉七口)と名付けられました。
※各見所の詳細や地図は名称をクリックし詳細記事をご覧ください。

大仏切通し。この辺りがもっとも切通しらしいところ。

大仏切通し。この辺りがもっとも切通しらしいところ。

鎌倉七切通し 地図

おすすめは古道の雰囲気を残す朝比奈、名越、大仏、化粧坂

鎌倉は正面と左右の低い山々(海抜159メートルの大平山が最高地点)を切通しが貫きます。現存する主な切通しは8つ、朝比奈名越大仏化粧坂亀ヶ谷坂極楽寺坂、釈迦堂口(落石により通行止め)、巨福呂坂(旧道は民家があり通行できない)。このうち釈迦堂口を除いた7つが鎌倉七切通し(七口)などと呼ばれます。

切通しは中世から江戸、近いものでは横須賀線の開通する明治まで重要な道路として使われており様々な歴史が刻まれています。おすすめは古道の雰囲気を残す朝比奈名越大仏化粧坂の4つです。

古代の東海道は海沿いを西から鎌倉へと入り、現在の東京方面へと向かうことなく鎌倉の山を越えて相模湾を船で渡り房総半島へと抜けたそうです。鎌倉には奈良時代に郡衙が置かれており人の往来も多かったでしょう。鎌倉幕府成立以前、古代の人々が歩いた道を我々も歩いているかもしれません。

朝比奈切通し

鎌倉と主要港六浦を繋ぐ中世鎌倉における物流の主要道路であり、古道の雰囲気を残す貴重な史跡です。鎌倉側の十二所から入り、横浜市の金沢八景/六浦方面へと抜けます、鎌倉の主要河川、滑川の源流でもある水の豊富な切通しです。夏は沢の水が心地よく、秋には深い紅葉が訪れる人々の目を奪います。鎌倉市と横浜市の境界あたりには頼朝が創建したと伝わる熊野神社があり深い山中に静かに佇んでいます。

名越切通し

13世紀前半に整備された鎌倉時代の要路。現在でも往時の姿をよくとどめた魅力ある古道です。鎌倉の名越から逗子に抜け、鎌倉と三浦半島を結ぶ重要な道路でした。頼朝死去後の覇権争いをほぼ制圧したこの時期の北条氏にとって唯一残った大勢力、三浦一族の本拠地へと繋がる意味でも存在感のある道だったことでしょう。逗子の法性寺口付近にある防衛施設とも石切場跡ともいわれる大切岸や切通し中程にあるまんだら堂やぐら群など見所の多さも魅力です。

大仏切通し

大仏裏から梶原方面の火の見下へと抜けます。大仏トンネルの真横から入り少し越えたあたりに出ますから、山を切り通したということを実感できます。火の見下出入口付近はとても雰囲気のある平場であり見事なやぐらがあります。この切通しは入口付近にて葛原岡・大仏ハイキングコースに接続しており、源氏山を抜けて北鎌倉の浄智寺まで行くことができます。

化粧坂切通し

源氏山を抜けるルート。化粧坂もしくは仮粧坂と書きます。当時源氏山には小町屋及び売買所を構えても良いと記録が残り遊女がいたといわれており、多数の火葬跡も発見されています。正確な名の由来は判別できませんが遊女と葬送「化粧をするのは死人と女」という藤原新也さんの言葉が浮かびます。

巨福呂坂切通し

雪ノ下と山ノ内を通します。第3代執権、北条泰時によって造られたといわれます。巨福呂坂により現在の山ノ内方面が発展し、建長寺円覚寺浄智寺など、鎌倉幕府(北条執権政治)の力を象徴するような大寺院が建てられていきました。

亀ヶ谷坂切通し

亀ヶ谷と北鎌倉を繋ぎます。建長寺の池にいた亀がこの急な坂を登ろうとして引き返したことから「亀返坂」(かめかえざか)と呼ばれ、これがいつしか「亀ヶ谷」になったといわれます。舗装整備された道です。

極楽寺坂切通し

長谷坂ノ下から極楽寺に抜けます。東海道の往来が鎌倉へと出入りする重要な道路でした。極楽寺開山の忍性が開いたといわれ、新田義貞の鎌倉攻めでは新田方の大館宗氏がここから攻め込み幕府軍に敗れています。現在は車も通る舗装道路です。

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