〈鎌倉十橋〉筋替橋

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〈鎌倉十橋〉筋替橋

(〈かまくらじっきょう〉すじかえばし)

鎌倉幕府の中心地に架かる橋

鶴岡八幡宮の北側、横浜国立大学附属小中学校の近くにあり、現在は暗渠(あんきょ)となっています。横大路、小町大路、六浦道(金沢街道)が交差する場所にあるのが筋替橋です。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にもたびたび登場します。

エリア駅周辺・八幡宮
住 所鎌倉市雪ノ下3-3-20付近
アクセス「鎌倉駅」下車、徒歩10分

筋替橋_01

現在川はなく、暗渠となっています。自動販売機の前あたりに石碑があります。手前は宝戒寺、横大路方面。直進すると金沢街道を浄明寺方面へといきます。

現在川はなく、暗渠となっています。自動販売機の前あたりに石碑があります。手前は宝戒寺、横大路方面。直進すると金沢街道を浄明寺方面へといきます。

主要道路が交差し、大倉御所、鶴岡八幡宮、北条義時邸跡(宝戒寺付近)などの主要施設が密集する主要な地点にあった橋です。

1247年6月5日、宝治合戦の際には三浦泰村を攻めようとする安達景盛が筋替橋の北から鏑矢を飛ばしたといわれています。

江戸時代の中期以降になって鎌倉は観光地として賑わうようになりました。それに伴って「七切通し」「五名水」などと名数によって名付けられることが増えました。その中のひとつが「鎌倉十橋」です。じっきょうと読みます。

1213年(建保元年)3月2日、源頼家の遺児をたてて謀反を企てた泉親平が筋替橋に隠れているとの風聞があった。

現在の十橋はほとんどが何の変哲もないコンクリートの橋です。川が暗渠(あんきょ)となり形だけ残るものもあります。しかしながら、それぞれの橋には鎌倉の歴史や逸話が含まれています。それを少しでも知っておけば、鎌倉散策にあと少しの楽しみがプラスされることでしょう。

十橋の多くは鎌倉を代表する河川である滑川に架かっています。滑川は朝比奈峠を源流として十二所、浄明寺と下り、大御堂橋の上流で二階堂川と合流し、名越川、扇ガ谷川、などの小さな川を併せ、由比ケ浜に注ぐ全長約5.5kmの河川です。

地域ごとに別名で呼ばれることもあったようです。上流の胡桃川、大御堂橋の近く文覚上人屋敷跡の辺りを座禅川、本覚寺の夷堂では夷堂川、さらに下って墨売川、閻魔川などでした。

『新編鎌倉志』(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の記述

筋替橋〔附畠山重忠屋敷 鎌倉十橋〕
筋替(すぢかへ)〔或作須地賀江(或は須地賀江に作る)〕橋(はし)は、雪下(ゆきのした)より、大倉村(をほくらむら)へ出る道の橋なり。鎌倉の十橋と云(いふ)は、琶琵橋(びはばし)・筋替橋(すちかへはし)・歌橋(うたのはし)・勝橋(かつがはし)・裁許橋(さいきよはし)・針磨橋(はりすりはし)・夷堂橋(えひすたうはし)・逆川橋(さかかははし)・亂橋(みたれはし)・十王堂橋(じふろうたうはし)なり。
筋替橋(すちかへはし)の西北を、畠山重忠(はたけやましけた丶)が屋敷の跡と云(いふ)。『東鑑』に、正治元年(1199年)五月七日、醫師時長(ときなが=当時の著名な医者)、昨日京都より參著す。今日掃部の頭(かみ)が龜谷(かめがやつ)の家より、畠山次郎重忠(しげた丶)が、南御門(みなみみかと)の宅に移(うつり)住す。是近々(ちかちか)に候ぜしめ、姫君(ひめきみ)の御病惱を療治し奉(たてまつ)らんが爲(ため)なりとあり。

鎌倉十橋(じっきょう)は以下のとおりです。

〈鎌倉十橋〉

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