英勝寺
目 次
英勝寺
(えいしょうじ)
鎌倉唯一の尼寺
江戸初期の建物がよく残る
室町以降の鎌倉と縁の深い尼寺。徳川家康の側室であった英勝院が父祖太田道灌の屋敷跡を徳川家光より与えられ、英勝寺を創建しました。
エリア駅周辺・八幡宮
住 所鎌倉市扇ガ谷1-16-3
宗 派浄土宗
本 尊阿弥陀三尊像
創 建1636年
開 基英勝寺尼、玉峯清因尼(開山)
文化財仏殿、山門、鐘楼、祠堂、祠堂門(いずれも国重文)
拝 観9:00〜16:00/300円
アクセス「鎌倉駅」裏駅(西口)下車、徒歩10分
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目16−3
江戸初期の鎌倉における最も重要な新寺創建
こじんまりとした風情に似合わず見所の多いお寺です。鎌倉唯一の尼寺であり、創建された江戸初期の建物が焼失せずにまとまって残っており(仏殿、唐門、鐘楼など)、当時の雰囲気をダイレクトに感じることができる貴重な場所です。
江戸城を最初に築城した室町時代の武将太田道灌の4代、太田康資(やすすけ)の娘で徳川家康の側室であった英勝院が創建しました。英勝院はもともとお八といいましたが、徳川家康の側室となるとお梶と改めます。さらにこのお梶を家康が戦場に連れて行くと家康軍が連戦連勝したため、「お勝」となったといいます。
お勝は1607年(慶長12年)に一女を授かりますがこの姫は4歳で亡くなってしまいます。家康は悲しみにくれるお勝に水戸藩主、水戸頼房の養育を命じます。お勝は頼房をよく育て徳川御三家の水戸徳川家の礎を築きました。ちなみにこの水戸頼房の子に黄門様でお馴染みの水戸光圀がいます。光国は『新編鎌倉誌』を編纂するなど鎌倉ともゆかり深い人物です。
徳川家康が1616年(元和2年)に死去するとお勝は出家し英勝院となります。そして20年を経て自身も還暦に近づいた英勝院は寺院の創建を願い、父祖太田道灌の屋敷地である鎌倉の扇ガ谷に英勝寺を開くことが許されました。1636年(寛永13年)11月23日に仏殿が完成し、翌年には英勝院が養母として育てた水戸藩主、水戸頼房の娘、小良姫が住職として入寺しました。その後も、江戸時代を通じて明治維新まで代々水戸徳川家の姫が住持を務める格式高い寺院として栄えました。
本尊は黄門様でおなじみの水戸光圀が運慶に造らせたと伝わる阿弥陀三尊像。本尊が安置される仏殿は、天井に鮮やかな天女や鳳凰が描かれており、目を奪われます。現在は復興された山門ですが、明治維新の煽りを食って町内の富豪に売却され、関東大震災でも同じように売却されたものの、復興運動によって現在に至ったという経緯を持っています。
鎌倉駅の裏駅(江ノ電側)を出て、紀伊國屋前の交差点を右に曲がってしばらく進み、寿福寺を過ぎて少し歩くと英勝寺が見えてきます。門前には蝋梅があり、英勝寺の梅の中でも例年早く咲きます。門前の梅が3分なら中はもう少し後、5分くらいなら本堂前の梅も同じくらい咲きますが、まだ少し早い。門前の梅が満開になってから行かれると中の梅もよい頃合いになっています。
梅、桜、藤、あじさい、紅葉といったメジャーどころはもとより、竹林、花菖蒲や著莪(シャガ)など四季を通じて境内には花木が咲きます。門に見頃の花を書いた木札が掛けられているのはありがたいところです。
国の重要文化財に指定された5つの建造物
仏殿
1636年(寛永13年)の創建から残ります。桁行三間、梁間三間、一重裳階(もこし)付、寄棟造、瓦棒銅板葺の建物。英勝寺は浄土宗の尼寺ですが、禅宗様方三間裳階付の意匠となっています。
山門
1642年(寛永19年)に死去した英勝院を弔うため1643年(寛永20年)に建造されました。開基の英勝院は徳川家康の側室となり後に水戸頼房の養母となります。水戸頼房の子、松平頼重が英勝院の一周忌に造営したのがこの山門です。山門は禅宗様三間二重門であり、建造当時の状態を良好に保っており大変貴重なものです。
鐘楼
山門と同じく1643年(寛永20年)に鋳造されました。袴をはかせたようにゆるやかな曲線を持つ、袴腰鐘楼です。
祠堂(しどう)
英勝寺の開基、英勝院の位牌を祀る建物。江戸初期に創建されました。山門を建立した水戸頼房の子であり、『新編鎌倉誌』を記すなど鎌倉とも縁の深い水戸光圀により建立されたと伝わります。保護のため外部が覆われていますがガラス越しに中を見ることができます。
祠堂門
英勝寺の開基、英勝院の位牌を祀る祠堂の門。こちらも江戸初期に建造され、一間一戸、銅瓦葺の平唐門です。欄干にある牡丹の透かし彫りが見事です。