三浦泰村供養塔
目 次
三浦泰村供養塔
(みうらやすむらくようとう)
頼朝挙兵以来の有力御家人、三浦一族自害の地
1247年(宝治元年)鎌倉を舞台に合戦が勃発します。二大勢力であった北条と三浦が戦い、敗れた三浦一族は滅亡します。これを機に北条得宗家による専制体制が確立します。
エリア北東
住 所鎌倉市西御門2
アクセス「鎌倉駅」下車、徒歩20分
神奈川県鎌倉市西御門2丁目
1247年(宝治元年)北条時頼と安達景盛の策にはまった三浦泰村は北条氏打倒の兵を挙げるものの戦いに敗れ、一族と共にこの地で自害しました。鎌倉を舞台にしたこの戦いは宝治合戦と呼ばれています。
北条氏は源頼朝の死後、頼朝の挙兵から幕府創設の時期に活躍した有力御家人たちを次々と駆逐していきました。比企、畠山、和田そしてこの宝治合戦における三浦氏。最後は霜月騒動のおける安達氏です。
三浦泰村(1184/1204-1247)は三浦義村の次男として生まれました。父義村は頼朝挙兵以来大きな功を挙げ、有力御家人として鎌倉幕府においても重要な位置を占めていました。泰村の代となっても多くの所領を持ち、北条氏に匹敵する勢力でした。
武勇に優れた泰村は承久の乱においても活躍します。その後北条泰時の娘を娶り、1238年(暦仁元年)には評定衆の一人となりました。ここまでは順風でしたが、源実朝の後、第4代将軍藤原頼経に近づいたことによって、執権北条時頼から危険視されることになります。
泰村に北条に対する挙兵の意志はなかったようですが、泰村の弟、光村は反北条色を鮮明にしており、京都に送還された藤原頼常に同行したといいます。
ここに三浦氏を排斥しようとする安達氏がつけいる隙が生まれます。安達氏は頼朝流人時代からの雄族であり、執権北条時頼の外戚でもあったものの三浦氏の風下に立っておりこれに強い不満を持っていました。
北条時頼は三浦泰村に変わって京都から北条重時を呼び戻し、泰村には執権外戚としての地位から引退するよう穏便な処置をすすめました。しかし、泰村はこれを拒否しました。北条重時は北条義時の3男であり17年にわたり六波羅探題を務めた重鎮であり、かつ穏健派として知られていましたから、これを受ければ事態は収束したかもしれません。
執権北条時頼は三浦泰村邸に滞在するなど合戦の回避に尽力し、平盛綱を使者として泰村の元へと派遣し和平を成立させます。しかし、これを機に三浦氏を滅ぼそうとする安達景盛は和平の使者が戻る前に出陣を強行し、無理矢理鎌倉を戦乱の渦に巻き込みます。時頼と泰村の和平への尽力は失敗に終わりました。
合戦が始まると御家人たちが鎌倉に集結します。北条、安達、足利、三浦(佐原流)に対して、三浦泰村の元には、毛利季光、春日部実景、宇都宮時綱、関政泰が集まりました。敗れた泰村と三浦一族など500余名は源頼朝の墓所である法華堂おいて自害しました。
これにより北条氏と比肩し得る唯一の勢力であった三浦氏は滅亡し、北条得宗家による専制体制が確立することになります。