三嶋大社
目 次
三嶋大社
(みしまたいしゃ)
源頼朝とゆかり深い、東海道随一の大明神
頼朝が配流された蛭ヶ小島の近くにある東海道を代表する大社。頼朝は三嶋大社に挙兵の成功を祈願しました。鎌倉(武家政権)成立後も、頼朝は二所詣として度々参拝しています。
エリア小田原・箱根
住 所静岡県三島市大宮町2-1-5
祭 神三嶋大明神=大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
創 建8世紀以前?
アクセス東海道新幹線・東海道線「三島駅」下車、徒歩約7分、もしくは伊豆箱根鉄道「三島田町駅」下車、徒歩約7分
公式HPhttp://www.mishimataisha.or.jp/
〒411-0035 静岡県三島市大宮町2丁目1−5
三嶋大社由緒
境内の由緒書きには「延喜の制には名神大社に列せられ伊豆国一宮正一位三島大明神として四辺の尊崇が厚い。明治四年官幣大社に列せられた名社である。」という説明があります。延喜の制とは、延喜式神名帳のことをいい、延長5年(927年)にまとめられた官社指定を受けた神社の一覧です。
伊豆国では大社が5座5社、小社が87座83社があります。「座」というのは鎮座する神のことです。ちなみに、大社5社は以下のようになっています。
伊豆三島神社(三嶋大社) 静岡県三島市大宮町 伊豆国一宮・総社
伊古奈比咩命神社(白濱神社) 静岡県下田市白浜
物忌奈命神社 東京都神津島村
阿波神社(阿波命神社) 東京都神津島村長浜
楊原神社 静岡県沼津市下香貫
明治4年(1871年)の官幣大社というのは、明治維新が成って以降、上述の「延喜式」に倣って神社の格を定めたものであり、大きく7つの等級があります。三嶋大社の「官幣大社」というのは最上級の社格です。静岡県の官幣大社は三嶋神社と全国に1,300ある浅間神社の総本山、富士山本宮浅間大社の2社です。
延喜式、明治式のいずれにおいても伊豆国(静岡県)においては最上の社格を持つ神社であったということがわかります。源頼朝が平氏追討、源氏再興という日本史上最大級の挙兵を行うにあたって、三嶋大社に百日詣をして事の成就を祈願したことも頷けます。現在の我々が参拝に伺っても神威に圧倒されます。
正確な創建年は不明ということになっていますが、延喜式が著されたのは延長5年(927年)であり、貞観11年(869年)に著された「続日本記」やさらに古い8世紀の史料にも登場しています。また、後述のように事代主神が国譲りの後に三嶋大社に鎮座したという伝承も考えると、悠久の歴史を持つ神社であることは間違いありません。
三嶋大社の御祭神
このように永い歴史と崇高な社格を持つ三嶋大社は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)を御祭神とし、総じて三島大明神と呼んでいます。
◎大山祇命(おおやまつみのみこと)
山の神、海の神、軍神、武神、酒造の神などとされています。大山積神、大山津見神、大山祇神などとも表記し、和多志大神、酒解神という別名も持ちます。『古事記』によると、「大山祇命」は伊弉諾尊(いざなぎ)と伊弉冉尊(いざなみ)との「神産み」によって産まれた神です。
◎積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
恵比寿様ともいわれ、海の神、五穀豊穣・商売繁盛の神です。大国主(おおくにぬし)の子として、出雲国の祭事を司っていおり、譲りに重要な役割を果します。国譲りの際に事代主神(積羽八重事代主神)は海中に青柴垣を作ってそこに籠もり、皇孫への恭順忠誠を表したといいます。
その時、事代主神は伊豆の三宅島で三島明神となり、三嶋大社に鎮座したという興味深い伝承があります。
三嶋大社と源頼朝
源頼朝が配流となっていた蛭ヶ小島と三嶋大社は約9kmの距離にあり、神仏への崇敬深かった源頼朝が日常的に参詣したことは想像に難くありません。治承4年(1180年)4月9日に以仁王による平氏追討の令旨を受けた源頼朝は、同年8月17日、三嶋大社神事の日に挙兵することとなります。
頼朝は挙兵にあたって三嶋大社に平氏追討・源氏再興を百日詣を行い祈願したといわれています。どこに記録があるかはわかりませんが、きっとそうに違いないとすんなり受け取れます。
平氏追討を成し遂げ「鎌倉」を創成した頼朝は、鎌倉の鶴岡八幡宮内にも三島社を勧請し、現在の葉山町にも三嶋大社を勧請した森戸大明神を創建するなど、三嶋大社への崇敬は厚くあり続けたようです。
以下に、『吾妻鏡』に書かれた三嶋大社の記述をいくつか要約してみます。二所詣については次の見出しにあります。
◎『吾妻鏡』1180年(治承4年)8月17日「頼朝挙兵」
三嶋大社の神事があったこの日、源頼朝が平氏追討の兵を挙げました。日本史上の転換点ともいえる重要な日です。現在でいうと9月の半ば頃でしょうか。平安時代は温暖期にあたり現在よりも気温は高かったといわれますから、快晴だったこの日は残暑が厳しかったのではないでしょうか。
頼朝はこの日、挙兵直前に安達盛長を三島大社へ奉幣させています。北条時政は「今日は三島大社の神事があり、多くの人々で賑わっているため大通り(牛鍬大路)ではなく、裏道(蛭嶋通り)をいくべきです」と頼朝に具申しますが、頼朝は「そうではあるが、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。また蛭嶋通りでは騎馬が使えない。大通りを使いなさい」と答えます。結果的に源頼朝は目的であった目代・山木兼隆を討ち取ります。
兼隆の郎従の多くは、三嶋大社の神事を見物するために参拝し、そのまま黄瀬川の宿にとどまって遊んでいたために不在だったといいますから、三島社の神事はさぞ多くの群衆が集まる盛大なものだったのでしょう。
◎『吾妻鏡』文治5年(1189年)4月3日
源頼朝も参り鶴岡八幡宮の祭礼がありました。ここで「三島社の祭礼が行われた」という記述があります。この三島社は鶴岡八幡宮に勧請されていた三島社のことです。
◎『吾妻鏡』建久5年(1194年)3月5日
三島社の千度詣のため、女房上野局を派遣しました。
◎『吾妻鏡』建久5年(1194年)11月1日
北条時政が三島社の神事を差配するため伊豆国に下向した。子の時連をともなった。
◎『吾妻鏡』建久5年(1194年)11月21日
三島社の神事が行われた。源頼朝は特に潔斎し、鶴岡の三島別宮に参った(鶴岡八幡宮内に三島社を勧請したもの)。また、御霊神社の前浜で千番の小笠懸が行われ和田義盛がこれを奉行しました。
源頼朝のニ所詣
源頼朝は、平氏を滅ぼし鎌倉創成も一段落着いた文治4年(1188年)、走湯権現(伊豆山神社)、箱根権現(箱根神社)、三嶋大社への参詣「ニ所詣」を始めます。名前は前者の二つをとって「ニ所詣」といわれます。いずれも頼朝の覇業成就を支えたゆかりの「神仏」です。源頼朝が始めた「二所詣」はほぼ鎌倉幕府を通じて行われました。
現在は伊豆山神社、箱根神社と呼ばれ神道のみの社となっていますが、これは、各寺社の長い歴史を考えれば「最近」といってもいい明治維新、神仏分離・廃仏毀釈運動以降のことであり、それまでは、永きに渡り神仏が習合した走湯権現(伊豆山神社)、箱根権現(箱根神社)でしたから、当然、源頼朝も神道の神だけでなく仏にも祈りました。
『吾妻鏡』に記された源頼朝によるニ所詣関連の記述をいくつか要約してみます。
◎文治4年(1188年)正月16日
源頼朝は鶴岡八幡宮に参詣。参詣から帰ると二所詣のための精進を始めます。頼朝は二所詣に出発する前に鶴岡八幡宮に参詣したり、沐浴や由比ヶ浜での潮浴でのなどで身を清めています。
◎文治4年(1188年)正月18日
二所詣への進発が近いことから、甲斐、伊豆、駿河等の御家人らに対して、先に下されていた山中などの警備について重ねて触れが出されました。謀反人である源義経の逃亡先が判明していなかったため、特に用心したものでした。
◎文治4年(1188年)正月20日
源頼朝は、鎌倉を出発し伊豆山権現、箱根権現、三嶋大社に参詣しました。平賀義信、源範頼、源広綱、源頼兼、足利義兼、新田義兼、奈胡義行、里見義成、徳河義秀らがお供をし、伊沢信光、加々美長清、小山朝政をはじめとする随兵は三百騎に及んだといいます。三浦義澄が差配し相模川に浮橋をかけたそうです。
◎文治4年(1188年)正月26日
早朝、政子と源頼家は鶴岡八幡宮に参詣し、御神楽があった。その後、頼家はニ所詣から帰る父 源頼朝を迎えるため固瀬河(片瀬川)のあたりまでいきます。
◎建久元年(1190年)正月20日
二所詣は最初、鎌倉を出発し、「走湯権現、三嶋大社、箱根権現」と参詣し鎌倉へと戻りました。しかし、建久元年(1190年)の二所詣の際、源頼朝は石橋山合戦において討死した墓(現在の佐奈田霊社)に立ち寄り、両人を思い涙を流しました。挙兵初期の最も苦しい時に先陣をきって頼朝を助け散っていった両名に対する悲しみは深いものがあったのでしょう。しかし、寺社への参詣にあたっては憚られるべきという意見を述べる先達があり、「箱根権現、三嶋大社、走湯権現」という順序が定められました。
◎建久2年(1191年)正月28日
源頼朝は二所詣の精進のために由比浦(現在の由比ヶ浜)に出かけます。水干を着て鴾毛の馬に乗りました。小早河惟平が御剣を持ち、足利義兼、北条義時始め、50に及ぶ従者がいたといいます。頼朝は海での沐浴を終えると浄衣に着替えます。頼朝はこのように、二所詣の前には身を清めていたようです。
◎建久2年(1191年)2月4日
源頼朝は二所に参詣した。辰の刻に横大路を通りまずは鶴岡八幡宮に参詣、奉幣(神前に幣帛を捧げること)の後に二所詣に出発しました。若宮大路を南に行き、稲村ケ崎に至り行列を整えました。
◎建久2年(1191年)2月10日
細かい雨が降る中、源頼朝は二所詣から鎌倉に戻りました。
主な祭事
◎1月7日 田祭
「たまつり」と読みます。御殿にて田祭が行われた後、舞殿において静岡県無形文化財に指定されている「お田打神事」が行われます。平安時代から行われ、年頭に五穀豊穣、天下泰平を願います。
◎8月16日 頼朝公旗挙出陣奉告祭
治承4年(1180年)8月17日、三嶋大社祭事の夜に挙兵し、勝利を得た故事に習い、本殿では奉告祭、舞殿前にて出陣式が行われ市中パレードもあります。
※この他、年間を通して多くの祭事が行われています。
主な宝物
〈国宝〉平政子奉納の蒔絵の櫛笥
源頼朝の妻、政子が奉納したと伝わる蒔絵手箱です。漆を塗り重ね、金粉を蒔きつける沃懸地(いかけじ)という技法によりつくられており、鎌倉時代を代表する漆工芸品です。昭和27年(1952年)、内容品30数点を含め国宝に指定されました。
〈重要文化財〉紙本墨書般若心経源頼家筆(建仁三年八月十日)
鎌倉タイム的にはかなり貴重です。唯一現存する第2代将軍源頼家の自筆書です。般若心経が書写されており、日付は建仁3年(1203年)となっています。源頼朝の嫡男として生まれ、建久10年(1199年)、源頼朝の死去に伴い第2代鎌倉幕府将軍に就任しました。
北条執権政治時代に書かれた鎌倉幕府公式記録『吾妻鏡』には、治世能力の欠如した我儘な将軍として描かれていますが、北条、三浦、比企など有力御家人たちの勢力争いに加え、京都の反幕府勢力の不穏な動きもあり、これらに翻弄されたことでしょう。また、執権時代に書かれたことで北条一族に貶められた部分もあるでしょう。頼家は、将軍就任からわずか4年後の建仁3年(1203年)7月、病にかかり、同年9月7日、この書が書かれた約1か月後に出家させられてしまいます。失意と病の中、平癒を願って奉納されたであろうことを考えると、この般若心経書写には重みを感じます。頼家がニ所詣をした記録はありませんから、そういった悔いもあったかもしれません。
〈重要文化財〉宗忠の太刀
鎌倉時代初期のもので、明治20年(1887年)6月5日、明治天皇より御奉納の太刀です。明治45年(1912年)に国宝指定を受け、昭和25年(1950年)より重要文化財となりました。備前一文字派の刀工宗忠作の名刀です。天皇陛下がお持ちだったのですから、宗忠の最高傑作だったのではないでしょうか。
境内見所
〈御殿〉
三嶋大社では本殿、幣殿、拝殿を総じて御殿と呼びます。東海地域の古社殿としては最大級である高さ16メートルの本殿は、嘉永7年(1854年)の東海地震で罹災した後、幕末の慶応2年(1866年)に落成し、平成12年(2000年)に国の重要文化財に指定されています。本殿を流造り(棟より前方の屋根が後方の屋根よりも長く、かつ反っている)とする複合社殿で、本殿、幣殿(へいでん)、拝殿から成る総欅素木造りの建物です。
境内説明書きに「殊に彫刻は全国に比類を見ない。」というように見事です。金網のようなもので保護されていて若干見づらいのですが、貴重なものですからその方が良いと思います。
随所に菊の御紋が施された御殿は自然に背筋が伸びる神威を感じさせられます。粛々かつ清々しい気持ちです。
〈舞殿〉
鎌倉に育つと鶴岡八幡宮に慣れていて思わず「まいでん」といってしまいますが、これは「ぶでん」と読みます。御殿の手前にあり、三島市指定建造物に指定されています。現在の建物は御殿と同じく幕末の慶応2年(1866年)に再建されました。古くは祓殿と呼ばれ、神楽祈祷を行ったそうです。現在では、県無形文化財の田打ち神事や、節分の豆まきなどの神事の他、結婚式などでも使われるそうです。
〈神門〉
御殿、舞殿の前にある神門も、幕末の慶応3年(1867年)に建てられました。この門から先が第一清浄区域ということになります。舞殿とともに三島市指定建造物となっています。
〈芸能殿〉
幕末の安政元年(1854年)に発生した安政東海地震により倒壊し、慶応4年(1868年)に再建された旧総門です。昭和5年(1930年)に発生した伊豆大地震の後、現在の総門が完成したため芸能殿として保存されています。
〈腰掛石〉
境内の案内によると「治承4年5月、源頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参をした折、腰を掛けて休息したと伝えられる。右側は北条政子の腰掛けた石である。」とあります。
治承4年(1180年)5月といえば、4月27日に以仁王(高倉宮)の平氏追討の令旨が源頼朝の元に届き、5月には平氏追討の旗を挙げた以仁王と源頼政が共に平氏に討たれ、頼朝は洛中の様子を探るとともに、三浦氏、北条氏、千葉氏などと会合しており、激動の渦中にある日々であったでしょう。
源頼朝が配流となっていた蛭ヶ小島と三嶋大社は約9km、歩いて2時間弱の距離ですから、神仏を深く敬った頼朝が宿願である平氏打倒の機会を前に東海道随一の神格であった三嶋大社に祈願したという説明はすんなりと理解できます。この後8月17日、源頼朝は三嶋大社神事の日に挙兵しています。
〈神馬舎〉
神馬(しんめ)を祀る社。慶応4年(1868年)に造られました。日本には奈良時代から祈願のために馬を奉納する習わしがあり、源頼朝もまた各所に馬を奉納しています。こちらの神馬は、古くから毎朝神様を乗せて箱根山に登るという伝説があり、昔は「お馬様が帰った」といって朝食を始めたそうです。神馬舎では子供の成長と健脚を祈ります。
〈相生松〉
「腰掛石」の項で書いたように、源頼朝は治承4年(1180年)、8月の挙兵前に三嶋大社に宿願である平氏打倒を祈願したといわれています。その日参の際に従者である安達盛長がここで警護にあたったと伝わります。黒松と赤松が一つの根から生えた縁起の良い相生松が植えられています。
安達盛長といえば、配流時代から挙兵、武家政権成立、そして正治元年(1199年)の死去に至るまで源頼朝を支え、頼朝が深い信頼を寄せた人物として知られています。鎌倉では甘縄神明宮という和銅3年(710年)創建の鎌倉一古い社の前に屋敷を構えており、源頼朝も度々訪問したことが記録されています。盛長は、頼朝死去の翌正治2年(1200年)に亡くなっています。
〈厳島神社〉
大鳥居をくぐると左右に池があり、左側が厳島神社です。北条政子が勧請したと伝えられています。北条政子が勧請したということは、源頼朝の死後でしょうか、だとすると13世紀前半の創建ということになります。
〈神池〉
大鳥居をくぐると神池があり、参道を挟んで左右に広がっています。境内立札には次のように記されています(句読点など一部筆者追記)。
「天長四年(827年)神池の水が渇れ天下大旱し神官の訴えにより朝廷は三嶋神殿に於て澪祭(雨乞)を行わしめた。六月十一日から十五日まで大雨が降る。時の帝は当社に圭田を寄せ神宮に禄金財帛を賜った(類聚国史)。
元暦二年(一一八五)八月 源頼朝は神池に於いて放生会を行い、その際、糠田郷・長崎郷を三嶋社の料と定めた(吾妻鏡)。」
※類聚国史=菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成・成立した歴史書。
〈若宮神社〉
若宮というのは、本宮に祀られた祭神の子を祀る神社のことです。また、以前どこかの神社で話を伺った際に「神様は若さを好む」と聞いたことがあり、とても印象に残っています。
境内の立札には次のように記されています(句読点・読みがななど筆者追記)。
「古くは八幡宮・若宮八幡宮又は若宮社等と呼ばれた。御祭神は物忌奈乃命(ものいみなのみこと=三嶋大社の御子神)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)・神功皇后・妃大神を祀る社である。例祭は八月十五日で御本社大祭の前日に行われる。
慶応四年(1868年)八月二十日再建」
本ブログのホームである鎌倉を代表する鶴岡八幡宮(鎌倉)にも若宮、という言葉が使われています。源頼朝から遡ること4代前の河内源氏当主・源頼義により康平6年(1063年)、最初に創建された時も鶴岡若宮(もしくは由比若宮)といい、現在は元八幡などともいわれます。
〈見目神社〉
「みるめじんじゃ」と読みます。同じ静岡県の裾野市麦塚にも同名の神社があります。「見目」は一般には「みめ」と読み、「見目麗しい」というように、顔立ちや容貌、面目、誉れなどを意味します。境内の立札には次のように記されています(句読点・読みがななど筆者追記)。
「若宮神社と同じく御本社と最も関係の深い社で摂社とも言う。御祭神は三嶋大神の后神六柱を祀る。昔は御本社大祭の前々日、幕府より奉献の玉簾を在庁(将軍の代理)が奉持し此の社前で検分の上神主に渡す儀式が行われた。
慶応4年(1868年)再建」
〈金木犀〉
「神木で約1千年の樹齢。秋至らば金花先づ開き次に銀花を年に二回咲いて、その香気ふくいくとして二里四方に及ぶといい伝えらる」(境内説明板)
総門を抜けて舞殿の右横あたりにある神木。昭和9年(1934年)に国の天然記念物に指定され、新日本名木100選にも選ばれています。国の天然記念物に指定された金木犀(きんもくせい)は全国に6件ありますが、そのうちの一つであり、境内の説明板には「日本一」と記されています。推定樹齢は1200年以上といいますから、三嶋大社が創建された頃からあるのではないでしょうか。
高さは15m、根回りは3〜4m、高さ1mくらいで大きく幹が二つに分かれ、枝先は地面すれすれまで垂れています。9月上旬〜中旬と9月下旬〜10月の2度開花します。この巨大な金木犀の芳香は周囲二里(約8km)に及ぶと伝えられています。
〈たたり石〉
大鳥居をくぐってすぐにあります。境内の立札には次のように記されています(句読点・読みがななど筆者追記)。
「此の石は大社前旧東海道の中央にあり行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。たたり(絡垜)は本来糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。
後に往来頻繁になりこれを取り除こうとする度に災いがあったと言われ、絡垜が祟りに置き換えて考えられる様になったと言われている。大正三年内務省の道路工事によって掘出され神社に於て此処に据えられ今日では交通安全の霊石としての信仰がある」
「絡垜」という字を「たたり」と読むこと、「祟」以外に「たたり」という言葉があるのを今回初めて知りました。大辞泉によると絡垜は「糸のもつれを防ぐ道具。方形の台に柱を立てて綛糸(かせいと)をかけるもの。」とあります。ここから交通安全となるとは納得です。
〈歌碑、句碑〉
境内には若山牧水、松尾芭蕉などの歌碑があり、手水側には明治天皇の御歌が掲示されています。
若山牧水の歌。「のずゑなる 三島のまちのあげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり」。
立札の説明は以下のとおり。「若山牧水は九州宮崎県に生まれ大正九年(一九二〇)三島市の西隣りの沼津市香貫に住み八月十五日に行われた三嶋大社の夏祭りの花火を見てこの歌を詠んだ。
昭和三十四年十二月 三島民報社建立」
松尾芭蕉の歌。「どむみりと 棟や 雨の 花曇り」。立札の説明は以下のとおり。「棟とは【せんだん】の事で元禄七年(一六九四)五月十四日三嶋明神に参詣した芭蕉は雨空に神池の辺りせんだんの花の群れを仰いで江戸に残してきた病床の妻「すて」の身を案じて詠んだ句である。」
〈神鹿園〉
境内右手、宝物館の裏には、柵に囲まれ多くの鹿が飼育されている一角があり、売店で鹿せんべいを購入して与えることができます。柵の中には鶏も飼われていました。
神道における神使、もしくは神そのものとされる動物ということでしょう。鹿、猿、虎、蛇、鳥、鶴、兎、狐などがあります。三嶋大社では鰻も神使とされているようです。
〈三嶋大社の社叢(大社の森)など〉
三嶋大社は、その歴史の長さを証明するかのように、国の天然記念物に指定されている樹齢1200年以上という金木犀(キンモクセイ)、樹齢850年の欅(ケヤキ)などたくさんの大木があります。
さらに境内を囲むように鬱蒼とした林があり、見事な樹々が密生しており「三嶋大社の社叢」として保護されています。社叢(しゃそう)とは、「神社の社殿や境内を囲むように密生している林」を意味します。以下、三島市教育委員会による説明板を引用します。
「三嶋大社の境内約5万㎡の内には、九〇〇本以上の樹木が生い茂っている。これらの樹木は各建造物を囲むように配られ神域を形成し、古くからの「鎮守の森」の景観をよく伝えている。
樹木の大部分は広葉樹が占め、広葉常緑樹と広葉落葉樹がほぼ半数ずつで混生林をつくっている。
イチョウなどの裸子植物が七科一四種、ケヤキやアラガシ、サクラなどの被子植物の離弁花類が二三科四〇種、ツツジやキンモクセイなどの被子植物の合弁花類が四科八種を数える。
東海の名社として多くの人々の信仰を集めてきたことから、その社叢もよく保存されており、現在も市民から大社の森として親しまれている。
平成九年十一月 三島市教育委員会」
〈伊豆魂神社〉
境内右手にある末社。幾多の戦争において国のために命を捧げた英霊を祀ります。境内の説明板には次のように丁寧な説明がなされています。「祭神 伊豆国出身で西南の役、日清日露戦争以来、大東亜戦争に至る数次の戦役により、祖国守護の大任を担い、身命を国家に捧げ、国難に殉ぜられた英霊を奉祀す」。例祭は11月4日ですから是非手を合わせ、頭を垂れたいものです。境内石碑には次のような鎮魂歌が刻まれていました。
「身はたとえ 荒野の果に朽ちぬとも み霊よ帰れ 伊豆魂の宮
身はたとえ 千尋の海に沈むとも み霊よ帰れ 伊豆魂の宮」
〈宝物殿〉
三嶋大社を知るにはぜひ訪れておきたい場所です。歴史や資料が数多く展示されています。北条政子寄贈による国宝「梅蒔絵手箱」を、当時の材料・技法で蘇らせた展示品は実に興味深いです。再現を記録したビデオもみることができます。
〈燈籠〉
大鳥居の側にある燈籠は、安永2年(1773年)、筑後国久留米藩第7代藩主、有馬頼徸(よりゆき)により奉納されました。有馬頼徸の治世は享保から天明に至る55年間という、歴代藩主中最長のものでした。熱海温泉を好んだといいますから、きっと源頼朝ゆかりの三嶋大社にも参詣に訪れたことでしょう。
〈高野槇〉
悠仁親王の御誕生(平成18年9月6日)を祝い、平成18年(2006年)11月、昭和天皇の第4皇女であり、今上天皇の姉にあたられる池田厚子様(順宮 厚子内親王(よりのみや あつこないしんのう))により手植えされた高野槇。高野槇は親王殿下の御印です。池田厚子様は伊勢神宮のみに設置される神職である神宮祭主を務められています。
〈檜〉
北白川房子様(1890-1974)お手植えの檜です。北白川房子様は、明治天皇の第7皇女、成久王妃 房子内親王(なるひさおうひ ふさこないしんのう)としてお生まれになりました。昭和22年(1947年)、女性初の神宮祭主(伊勢神宮のみに置かれている神職)となり神社本庁総裁もお務めになられています。
夫である北白川宮成久王、ご子息・永久王を相次いで亡くされながら戦後の混乱期を、借家住まいなどの辛苦に耐え抜かれ没落せずに生き抜かれました。この木は、昭和30年(1955年)2月28日、三嶋大社御参拝の折にお手植えされました。