満願寺
目 次
満願寺
(まんがんじ)
一ノ谷の合戦「鵯越」一番乗りの勇者、佐原十郎義連の墓所
いまから830年の昔、打倒平氏の兵を挙げ治承・寿永の乱を治めた源頼朝は「鎌倉」という新しい概念とそして幕府を創成しました。満願寺を創建した佐原十郎義連は、三浦義明の子にして、頼朝に従い数々の功を成した勇者です。特に平家物語における一ノ谷の合戦「鵯越」一番乗りの伝説は有名です。
エリア横須賀
住 所横須賀市岩戸1-4-9
宗 派臨済宗建長寺派
本 尊観音菩薩立像
創 建1184年頃
開 基佐原義連、大達明岩正因禅師(開山)
文化財伝佐原義連廟所、観世音菩薩(国重文)、地蔵菩薩(国重文)、不動明王立像(市重文)、毘沙門天立像(市重文)
アクセスアクセス 京急「北久里浜駅」もしくは「京急久里浜駅」よりバス「岩戸」下車、徒歩2分
いまから830年の昔、打倒平氏の兵を挙げ治承・寿永の乱を治めた源頼朝は「鎌倉」という新しい概念とそして幕府を創成しました。満願寺を創建した佐原十郎義連は、三浦義明の子にして、頼朝に従い数々の功を成した勇者です。特に平家物語における一ノ谷の合戦「鵯越」一番乗りの伝説は有名です。
神奈川県横須賀市岩戸1丁目4−9
三浦義明の子、佐原十郎義連ゆかりの寺院
三浦氏の本拠地、衣笠城周辺に位置する三浦氏ゆかりの寺院。三浦氏は三浦半島一帯と安房の一部を平安以来450年に渡って治め、源頼朝による鎌倉創成の中心的な勢力として活躍。鎌倉幕府の主要な地位を占めることとなりました。
満願寺は源頼朝の父義朝とともに保元・平治の乱を戦い、頼朝挙兵に一身を捧げた三浦義明の子、佐原十郎義連を開基とした寺院であり義連の墓所でもあります。
衣笠城の東南に位置するこの地域に住んだため、佐原を名乗りました。現在でもこのあたりは佐原という地名を使用しています。満願寺は佐原十字路に近い岩戸という場所にあります。山を後ろに控えてとても静かな境内には本堂、佐原義連の墓所、国の重要文化財である観世音菩薩、地蔵菩薩を安置しています。
源頼朝と共に戦い「鎌倉」を創った勇者の創建らしく、当初は現在の数十倍の広さを誇る大伽藍であったことが近年の発掘調査により判明しています。
伝説の勇者、佐原十郎義連
佐原義連は父三浦義明に従い源頼朝の挙兵に加わりました。生没年は不詳ながらこの時19歳であったといわれています。衣笠城合戦では「源頼朝公に助力せよ」といって一人衣笠城に残り散っていった父の姿を心に刻んだことでしょう。
弓馬に優れた武勇の士であった義連は治承・寿永の乱において大いに活躍し、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』や『平家物語』にもその名は登場します。
世に名高い1184年(寿永3年)一ノ谷の戦いにおける源義経、鵯越の逆落としでは精鋭70機のうちにあり「このような崖は三浦では馬場のようなものだ」といって真っ先に駆け下り一番乗りを得たといいます。
源頼朝寝所の警護11人のうちに選ばれるなど頼朝の信任も篤く、後に六波羅探題として手腕を発揮し初代連署となった北条時房元服の際には頼朝の命によりその烏帽子親となり、時房は時連となのりました(その後時房と変名)。
1189年(文治5年)の奥州合戦においても活躍し、陸奥国会津の地を得ています。ちなみにその後宝治合戦によって三浦一族のほとんどは滅びてしまいますが、義連の子孫盛時は生き残り、相模三浦氏として三浦氏を再興し、会津にあった庶流はあの戦国大名の蘆名氏となりました。
諸仏
満願寺には国の重要文化財に指定されている木造観音菩薩像、木造地蔵菩薩像、横須賀市指定重要文化財の木造不動明王立像、木造毘沙門天立像があります。
木造観音菩薩像、木造地蔵菩薩像は1972年(昭和47年)に国の重要文化財に指定されました。それまで特に文化財の指定がなかったことから、関東における重要な発見であったことが推察されます。観音菩薩像は226.5cm、地蔵菩薩像は203cmと共に等身を上回る大型のものです。
寺伝によると観音菩薩像は佐原義連が源義経の搦手軍として平氏追討に赴く際に、仏師に造らせたといわれ、運慶の影響を受けた鎌倉地方の仏師によるものとされています。寄木造りの玉眼入り、手に持つ蓮の花や光背、岩座などは後の製作とされています。
地蔵菩薩像は木造玉眼入り、左手に宝珠、右手には2mを超す錫杖(しゃくじょう)を持ちます。観音菩薩像と同じく宝珠や錫杖、光背、岩座は後の製作。
同じ横須賀市にある三浦氏の支族、和田義盛の創建による浄楽寺には運慶作の仏像があり、この時代の坂東武士たちが運慶様式の仏像を好んだことを知らせてくれます。三浦氏による仏教文化を知る資料としても貴重な発見でありました。
伝佐原義連廟所
本堂背後の山には佐原義連の廟所と伝わる五輪塔があります。高さ174cmの立派な五輪塔は鎌倉時代の形式を持ち、凝灰岩(ぎょうかいがん)でできています。エゴ時代の書物、『新編相模国風土記稿』に「佐原十郎義連墓は観音堂の側にあり、五輪塔なり。高さ七尺、左右に五輪塔六基相並ぶ。」と記されています。観音堂とは、かつて国の重要文化財となっている、観世音菩薩、地蔵菩薩像を安置していました(現在は境内の保管庫に所蔵)。
享保年間(1801~1803)に三浦志摩守によって瓦や土塀が修築されましたが、老朽化により昭和59年に現在の塀に改築されました。
廟所の背後には静けさをたたえる樹々、竹林に覆われています。源頼朝とともに「鎌倉」を創った勇者、鵯越の一番乗り、佐原義連に思いを馳せるとてもよい場所です。境内には桜や水仙が植えられており、冬から春にかけてさぞ美しいことと思います。
先日鎌倉ガイド協会主催のウォーキングの途中、万願寺に立ち寄り、ご住職からお話を聞く機会があり、大変有意義な時間を過ごす事が出来ました。
ただお話の中で、阪神淡路大震災の後、被災地訪問をした時、写真を撮ったところ現地の人に何か注意を受けたとのこと、なんで注意を受けたのかを聞き洩らしたので、それに関する記事が載っている文献・本があれば教えてください。よろしくお願いします。
佐原までいかれているとは、鎌倉ガイド協会のウォーキングも随分範囲がひろいのですね。
お問い合わせの件、状況がよくわかりませんが、阪神淡路大震災被災地での出来事のようですから、当方ではわかりかねます。
お力になれず残念です。よろしくお願いします。