頼朝挙兵〜鎌倉入り
いよいよ頼朝が平氏打倒の兵を挙げます。一度は石橋山合戦で破れるものの、再度父義朝以来の関東の源氏勢力を束ね平氏方を撃破。鎌倉へと入ります。鎌倉殿、頼朝の誕生です。
頼朝挙兵
和暦 |
西暦 |
天皇/将軍/執権 |
日付 |
鎌倉の動向 |
治承4年 |
1180年 |
安徳 |
4月27日 |
頼朝、叔父源行家より以仁王による平氏追討の令旨を受けとる。 |
5月15日 |
平清盛が軍勢を率い摂津の福原より上洛、以仁王の土佐配流の宣旨が下される。 |
5月26日 |
平氏に都を追われた以仁王は南部勢力をたのみ奈良へと向かうが、途上にて討たれる。 |
5月27日 |
京では以仁王方は完全に敗れ、以仁王の令旨に応じた者への攻撃が御所において決定される。 |
7月5日 |
頼朝、法華経読経800部を納め平清盛一族打倒の加護を仏前に願う。 |
8月17日 |
挙兵。三島社の大祭にまぎれて伊豆国目代山木兼高を襲撃。兼高主従を討ち取る。 |
8月23日 |
相模、武蔵方面へと向かおうとする頼朝軍300騎は石橋山にて大庭景親率いる平家方3千騎と遭遇。合戦が始まる。 |
8月24日 |
石橋山での合戦に敗れた頼朝は箱根山に逃れる。この時箱根山の別当行実、これを匿う。 |
8月26日 |
頼朝の挙兵に従った三浦義明の一族は石橋山の敗戦を知り衣笠城に篭城。当主義明は家来を逃し独り討死する。 |
8月28日 |
頼朝は箱根から真鶴岬へと逃げ、そこから船を使い安房(千葉)方面へと向かった。 |
8月29日 |
真鶴岬を出た頼朝は安房国平北郡猟島(現・千葉県安房郡鋸南町竜島)に到着する。 |
9月1日 |
頼朝、安房の住人、安西景益に在庁官人らとともに参上するよう促す。 |
9月3日 |
小山朝政、下河辺行平、豊島清元、葛西清重ら有力武士にも参上を促す。 |
9月4日 |
房総半島の二大豪族へ参上を促す。上総の上総介広常へは和田義盛を、下総の千葉介常胤のところには安達盛長を遣わした。 |
9月6日 |
上総介広常のもとへと行っていた和田義盛が戻り、千葉介常胤と相談し参上する旨の返事を持ち帰る。 |
9月7日 |
木曾義仲挙兵。 |
9月8日 |
北条時政が甲斐に遣わされる。甲斐源氏をまとめ信濃へと勢力を進めるよう頼朝の命を受けていた。 |
9月9日 |
千葉介常胤への遣い安達盛長が参上の確約を得て戻る。同時に常胤は源氏ゆかりの要害の地、鎌倉へ向かう事を勧める。 |
9月13日 |
頼朝、安房を出て上総へと向かう。千葉介常胤一族は平氏方目代を襲撃し誅殺する。 |
9月15日 |
武田信義、一条忠頼らは信濃攻撃を成功させる。そこへ北条時政が到着し頼朝の命を伝える。 |
9月17日 |
頼朝、下総に向かう。千葉介常胤一族が平家の目代を手みやげに300騎を伴い合流。 |
9月19日 |
上総介広常、2万騎を率いて参上。遅参を咎めた頼朝に主としての貫禄を感じ得たされる。 |
9月20日 |
安房、上総、下総の兵を膝下に従えた頼朝は、駿河にて平氏軍を迎え撃つべく上野、下野、武蔵の源氏に参上を命じる。 |
9月29日 |
平維盛、平忠度、平知盛らが率いる平家軍が京都を出発。 |
10月2日 |
3万騎となった頼朝軍は武蔵へと到着する。頼朝の乳母寒河尼は子息、小山宗朝を引き連れ頼朝に仕えさせた。 |
10月4日 |
身内の在京によりやむなく衣笠城にて三浦義明を討った畠山重忠、河越重頼、江戸重長が頼朝の膝下に入った。 |
10月6日 |
相模国到着。先陣は畠山重忠が務めた。従う軍士は幾千万ともしれず。 |
鎌倉殿頼朝、誕生
和暦 |
西暦 |
天皇/将軍/執権 |
日付 |
鎌倉の動向 |
治承4年 |
1180年 |
安徳 |
10月7日 |
頼朝鎌倉入り。由比の八幡宮を遥拝。扇ガ谷の亡父義朝の屋敷跡(現・寿福寺)を訪れるも狭く、他に屋敷地を探す。 |
10月11日 |
挙兵の戦勝祈願を行った伊豆走湯山の住僧、専光坊良暹が鎌倉に到着。政子も鎌倉に来る。 |
10月12日 |
由比から現在の地に鶴岡若宮を移す。専光坊が八幡宮寺別当となった。 |
10月16日 |
平惟盛を大将とする数万騎の平氏軍を迎え撃つため、頼朝が鎌倉を出陣。 |
10月18日 |
頼朝は20万騎を率いて黄瀬川宿(現静岡県沼津市大岡木瀬川)に到着。甲斐、信濃の源氏と北条時政が2万騎を率いて到着。 |
10月20日 |
富士川の合戦。夜半、武田信義は平家軍の背後を襲おうとすると水鳥の一群が飛び立った。その羽音に驚いて平氏軍は退却。 |
10月21日 |
頼朝、義経と対面。黄瀬川宿に戻っていた頼朝を義経が訪ねる。 |
10月27日 |
佐竹秀義討伐のため常陸へと出陣。 |
11月4日 |
頼朝軍、佐竹秀義の籠る金砂城を攻め落とす。 |
12月12日 |
いわゆる「頼朝の鎌倉」誕生の象徴的な日。新造された大倉郷の館に頼朝が入る様は御家人311人が従う壮大なものだった。 |
養和元年 |
1181年 |
安徳 |
1月1日 |
頼朝、鶴岡若宮参拝。日の吉兆にかかわらず1日を参拝の日と決めたという。参拝の後、法華経の供養があった。 |
1月12日 |
石橋山の合戦に敗れ、山中に隠れる頼朝を救った当時の敵方梶原景時、頼朝と初対面。弁舌が巧みであり頼朝に気に入られた。 |
2月15日 |
後白河上皇による頼朝追討の院宣が東海道に下される。 |
2月23日 |
頼朝の叔父源義広が平家方につき数万騎を率いて鎌倉攻めに出発。頼朝方の小山朝政、結城朝光らによって討ち取られる。 |
3月11日 |
墨俣川の敗戦。平重衡を大将とする平氏軍が東海道を下り墨俣川に布陣。頼朝の叔父源行家らが迎え撃つも敗れる。 |
4月7日 |
特に弓矢に優れ信頼の厚い御家人を選び御寝所警備を命ずる。北条義時、下河辺行平、結城朝光、和田義茂、梶原景季、宇佐美実政、葛西清重、三浦(佐原)義連、千葉胤正、八田知重である。 |
6月19日 |
頼朝は納涼のため三浦へ。御家人たちが悉く下馬平伏する中、上総介広常は騎乗にて会釈。三浦(佐原)義連に注意されるも「公私共三代の間、そのような礼はとったことがない」と言った。 |
6月25日 |
戌の刻、客星(超新星)が鎌倉の北東に現れる。 |
7月20日 |
鶴岡若宮、社殿上棟式。頼朝が大工の棟梁に与える馬をひく役を義経に命じると渋った。畠山重忠などの御家人がやっているのに何事かと叱られ、すぐに馬を引いた。 |
8月13日 |
平氏の圧力により藤原秀衡に頼朝追討の、城資職には木曽義仲追討の宣旨が下される。 |
8月16日 |
平通盛が木曽義仲追討のため北陸道へ。藤原清綱、藤原忠清、館貞保らが頼朝追討のため鎌倉へと出発。 |
8月26日 |
京の三善康信より16日追討軍出発を知らせる飛脚が鎌倉の頼朝の元に到着。 |
9月4日 |
木曽義仲軍が上洛のため北陸道を出発。平通盛軍と衝突。 |
9月7日 |
頼朝、源義広に加担した下野の足利俊綱討伐を和田義茂に命じる。 |
9月13日 |
足利俊綱、臣下の桐生六郎の裏切りにより討たれる。 |
10月3日 |
平維盛軍が鎌倉へと出発。 |
養和2年 |
1182年 |
安徳 |
1月23日 |
平時家が頼朝を訪れる。昨年6月19日騎乗会釈以来、頼朝の機嫌を損ねていた上総介広常がその罪を償うため婿である時家を頼朝に推挙した。 |
2月14日 |
政子懐妊。この報を聞き、三浦義澄に預けられていた伊東祐親自害。 |
3月15日 |
政子懐妊を機にかねてより懸案であった、鶴岡若宮から由比ヶ浜までの参道を造る(段葛)。頼朝自身が指揮し北条時政などの御家人も石を運んだという。 |
4月5日 |
京都・高雄、神護寺の文覚上人が頼朝の御願を祈るため大弁財天を江之島に勧請し、藤原秀衝調伏の秘密の行法を施した。頼朝も臨席した。 |
7月12日 |
政子が産気。比企能員の屋敷に入った。 |
頼家誕生
和暦 |
西暦 |
天皇/将軍/執権 |
日付 |
鎌倉の動向 |
寿永元年 |
1182年 |
安徳 |
8月12日 |
政子が男子を出産(頼家)。比企尼の娘、河越重頼の妻が御乳付を行った。乳母夫は比企尼の甥、比企能員。 |
10月9日 |
越後の城永用が源氏を攻撃しようとしたため、木曽義仲が軍勢を率いて出発。信濃国筑麿河において合戦に及び木曽軍が勝利した。 |
11月10日 |
政子が頼朝の妾、亀前が住む藤原広綱邸を牧宗親に襲わせる。北条時政の後妻、牧の方の密告に始まるものだった。 |