鶴岡八幡宮
目 次
鶴岡八幡宮
(つるがおかはちまんぐう)
鎌倉武士の守護神
鎌倉を象徴するものはたくさんありますが、やはりここ、鶴岡八幡宮が一番でしょう。日本三大八幡宮、武家の守護神として厚い信仰を受けてきました。源平池の桜や紅葉なども楽しめますし、境内にある鎌倉国宝館もぜひいっておきたい場所です。
エリア駅周辺・八幡宮
住 所鎌倉市雪ノ下2-1-31
主祭神応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)
文化財等古神宝類(国宝)、境内(国史跡)など
アクセス「鎌倉駅」下車、徒歩10分
武家の聖地
鶴岡八幡宮はあらゆる意味で鎌倉を体現する場所であり、鎌倉の街は八幡宮が中心になっています。武家源氏、鎌倉武士の守護神として源頼朝が鎌倉幕府を創設して以降、室町、戦国、江戸と武士の世の中が続き、厚い信仰を集めてきました。
あまりにメジャーな八幡宮についてはすでに語り尽くされている感がありますが、一通りおさらいします。
1063年、源頼義が源氏の氏神として京都の岩清水八幡宮を由比ケ浜付近(現在の元八幡)に祀ったのが起こりです。その後、源氏を再興した源頼朝は治承4年(1180年)に現在の地(小林郷=鶴岡八幡宮から十二所に至る昔の地名)に八幡宮を移し、建久2年(1191年)にはほぼ現在の形に整え、鎌倉の中心としました。現在の本殿は文政11年(1828年)江戸幕府11代将軍徳川家斉によって再建されました。
源頼朝が鶴岡八幡宮をこの地に移す前、ここには稲荷社があり、頼朝はこれを西の丸山に移したので「是の故に上宮を松が岡の八幡宮という」と新編鎌倉志は伝えています。この稲荷社は現在丸山稲荷社と呼ばれ本殿左手の小さな丘(丸山)にあります。鶴岡八幡宮の建物の中では最も古く、国の重要文化財に指定されています。
八幡宮の特長といえば美しい上下2院でしょう。本殿からは、三、二、一の鳥居と真っすぐに由比ケ浜まで延びた参道が見渡せます。800年の長い歴史を持つ八幡宮には、歴史に名を残す数々の出来事があります。静御前の舞、公暁による実朝暗殺、最近では大銀杏の倒壊など枚挙にいとまがないことでしょう。
何もなくとも一年中参拝客が絶えない名所ですが、初詣や桜の季節、流鏑馬時には一層混雑します。あまり知られていませんが、境内には鎌倉武士の守護神らしく武道場もあり、菖蒲祭や例大祭などの初日は今でも剣道・弓道など武道の奉納から始まります。また、参拝と同じくらい注目していただきたいのが鎌倉国宝館です。鎌倉の寺社などにある文化財が多く収蔵されており、企画展示も盛んです。鎌倉散策において、本当に時代に触れるなら、外せない重要なポイントです。
また、境内にある神苑牡丹園は、正月〜2月、4月〜5月中旬と冬と春の2度の見頃があります。特に冬、降雪時は雪囲いされた寒牡丹は見所です。2月下旬から3月には梅が咲きますが、舞殿前に数本ある程度です。桜は弁財天などに多くあり種類も豊富です。4月下旬から5月上旬にかけては牡丹、藤、躑躅(ツツジ)が一斉に咲き、初夏の雰囲気とともにうきうきした心地になります。
子供の頃、よく隠れたりして遊んだあの立派な大銀杏がまさか倒れるとは想像もしませんでした。また、三ノ鳥居近くにある太鼓橋はつるつる滑って面白く、よく遊びましたが現在は通行禁止になってしまいました。子供たちは残念でしょう。源平池で釣りをして神社の方に怒られたのも今では良い思い出です(真似しないでください)。正月にアルバイトをした時には、神社の方々が大変親切にして下さって、厳かな雰囲気ながらもとても気持ちよく働けたこともよく覚えています。
四季
初詣の名所となっている鶴岡八幡宮の正月三が日は約250万人が初詣に訪れ、大変賑やかです。あまりに混むため、数回しか元日に訪れた記憶がありません。小学生の時に数度、その後は鶴岡八幡宮そのものでアルバイトした時や、若宮大路の飲食店でこれまたアルバイトした時くらいです。大抵7、8日あたり、落ち着いてからお参りします。
その際、初詣とともに楽しみにしているのが神苑牡丹園の寒牡丹。元日から2月下旬が冬の見頃となっており、その後も雪が降るとよくいきます。雪囲いの寒牡丹と雪がとても美しいです。ちなみに、春の見頃は4月から5月中旬です。
2月は節分祭が行われます。新年の厄災払いにはとても霊験あらたかという感じがします。雪景色も楽しみの一つです。中旬を過ぎると境内の梅の開花が気になります。鶴岡八幡宮の梅は本数が少ないものの、それがまた、印象的でもあります。
3月に入ると梅は見頃を迎え、桜の蕾が膨らむ様をみることができます。境内にあるビャクシンやマキの大木も緑鮮やかになってきます。
4月の鶴岡八幡宮、参拝客のおめあては桜(鶴岡八幡宮の桜)。段葛から始まり、源平池周辺のソメイヨシノが目立ちますが、大島桜などもあり種類は豊富です。
5月は躑躅(ツツジ)と藤(フジ)が見所。ちょうどゴールデン・ウィーク頃に見頃を迎えます。鎌倉まつりの流鏑馬や静の舞も多くの人で賑わいます。
6月は三浦半島が原産地の一つということで鎌倉と相性のよいあじさい、そして、永い歴史が幽玄を引き立てるホタルが楽しみです。若宮と白幡神社に挟まれた柳原神池を舞うホタルは美しさもひとしおです。
梅雨が開けて、暑い夏は源平池いっぱいに大きな葉を広げる蓮の花が見事です。8月の立秋前日から9日までの3日間(年により4日間の時も)には、ぼんぼり祭りが行われます。三ノ鳥居から舞殿にかけてぼんぼりが吊るされ、雰囲気抜群。9月には小笠原流による流鏑馬神事が奉納されます。
残暑を過ぎて初秋は過ごしやすく参拝にはもってこいです。ただ、寒さが増す11月頃には柳原神池の紅葉が色づきます(鶴岡八幡宮の紅葉)。紅葉が終わって12月に入ったらすっかり暮の雰囲気。年越しに向けて慌ただしくなっていきます。
施設
鳥居
鶴岡八幡宮の大きな鳥居はまっすぐ由比ヶ浜へと向かう若宮大路に3つあります。現在は由比ヶ浜に近いものから一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居といわれていますが、正しくは反対に数えるようです。しかし、小誌では混乱を避けるため現在の通称どおり、由比ヶ浜に近いものを一ノ鳥居として書いていきます。
この3つの鳥居の中でも由比ヶ浜に近い一ノ鳥居は、江戸時代初期に建てられたものが当時の姿をとどめており必見です。江戸幕府の第4代将軍 徳川家綱は寛文8年(1668年)に武家の聖地鶴岡八幡宮の3つの大鳥居を寄進しました。二ノ鳥居、三ノ鳥居は関東大震災により倒壊し新たに造られたものですが、この一ノ鳥居は1936年(昭和11年)家綱が寄進した御影石を最大限に活用し、補足材料も家綱寄進の際と同じ備前犬島産を使用するというこだわりの復興がなされました。
たびかさなる埋め立てにより鎌倉の海岸はどんどん狭くなっていますが、かつては現在の一ノ鳥居のすぐ近くまで浜が広がり、一ノ鳥居は現在よりももっと内側にあったそうです。その位置は若宮大路を少し鶴岡八幡宮方面に戻ったところにある由比ヶ浜歩道橋あたりでした。歩道橋の下には「浜の大鳥居跡」の史跡があります。
詳しくは史跡コーナーの「一ノ鳥居(浜の大鳥居)」記事をご覧ください。
『新編鎌倉志』の「大鳥居」記述
江戸時代につくられ、種々鎌倉案内の元情報ともなっている水戸光圀編纂による『新編鎌倉志』には以下のように記述があります。(筆者によるわりと勝手な書き下しです。以下同じ)
大鳥居(をほとりい)
由比濱(ゆひのはま)の方に有を大鳥居と云、兩柱の間た、下にて六間半、高さ三丈壹尺五寸。石の柱のめぐり、壹丈二尺五寸、笠石(かさいし)の長さ八間なり。一・二の鳥居は、兩柱の間た、下にて四間、柱(はしら)のめぐり七尺なり。東西の透門(とをりもん)に、又鳥居あり。兩柱の間た壹丈三尺五寸、柱のめぐり四尺五寸。東西同じ。都(すべ)て五所(いつところ)に鳥居あり。『東鑑』に、治承四年十二月十六日、鶴か岡の若宮に鳥居を立らるとあり。又『鶴岡社務次第』に、養和元年辛丑十二月十六日、若宮に鳥居を立らる。景時(かけとき)・景義(かけよし)等奉行す。武衞(賴朝)監臨し給ふとあり。又『東鑑』に、建保三年十月卅日。鶴が岡の濱(はま)の鳥居、新(あらた)に造らる。去る八月の大風に、顚倒するが故なり。仁治二年四月三日、大地震、南風に、由比浦の大鳥居、内の拝殿、潮に引かる。寛元三年十月十九日、由比濱に大鳥居を建(たて)らる。北條左親衞時賴(ときより)、監臨せらるとあり。『鎌倉九代記』に、上杉安房(うえすぎあは)守入道道合(たうごふ)、嘉慶二年六月、大華表を立られ、落慶供養を遂(とげ)らるとあり。『関東兵亂記』に、北條氏康(うちやす)、先君の遺願をも果し、且(かつ)は武運の榮久をも祈らん爲に、天文二十一年卯月に、由比濱大鳥居修造せらるとあり。賴朝(よりとも)の時建立有て、代々修復あり。今の鳥居は、寛文乙巳(きのとのみ)の年より、戊申(つちのへさる)の秋に至(いたる)まで、上(かみ)・下(しも)の宮(みや)、諸の末社等に至(いたる)まで、御再興有し時の鳥居なり。其書付(かきつけ)に、鶴岡八幡宮の石隻華表、寛文八年戊申八月十五日、御再興とあり。三所(みところ)の鳥居共に如斯あり(斯くのごとくあり)。鳥居の石(いし)は備前國犬島(いぬしま)より取寄(とりよせ)らる。其の時の奇瑞等の事、『寛文年中修復記』に詳(つまひらか)なり。
源平池/旗上弁財天/神苑牡丹園
藤、躑躅(つつじ)、桜、蓮の名所として知られる源平池は、鶴岡八幡宮境内でも人気の場所(下のギャラリーに写真があります)。池を囲むように造られた「神苑牡丹園」も見事です。1732年(享保17年)の鶴岡八幡宮絵図にも描かれ、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』をみると頼朝鎌倉入り後すぐの1182年(寿永元年)4月24日の項に「鶴岡若宮近くの水田を池に改修した。専光坊・大庭景義等が担当した」と記されています。
源平池には旗上弁財天があります。これは鶴岡八幡宮創建800年を記念して文政年間の古図をもとに復元されたものです。この弁財天は鎌倉七福神の一つになっており、弁財天像は国重要文化財に指定されています。社前の藤棚は特に美しく季節には見物客が多く訪れます。境内の案内板には以下のように記されています。
治承4年(1180年)8月 源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家追討の本拠とした。夫人政子に平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(1182年)大庭景義に命じて境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。そして東の池の中の島に弁財天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔と共に除かれた。その後昭和31年篤信家の立願によって再興され、さらに昭和55年9月鶴岡八幡宮創建800年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
因みに弁財天信仰は、鎌倉時代に既に盛んで、妙音芸能の女神、福徳利財の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。
神苑牡丹園についてはこちらを御覧ください。
『新編鎌倉志』の「旗上弁財天」記述
辨才天社(べんざいてんのやしろ)
社前の池中東の方にあり。二間に一間の社なり。辨才天の像は、運慶が作なり。膝(ひざ)に琵琶(びは)を横(よこ)たへたり。俗に傳(つた)ふ、小松(こまつ)大臣の持(もち)たる琵琶なりと。『東鑑』に、壽永元年四月廿四日、鶴が岡若宮の邊の水田〔号絃卷田(絃卷田(つるまきた)と号す)〕三町餘(あま)り、耕作の儀を停(とめ)られて池(いけ)に掘(ほら)るとあり。池中に七島(ななつのしま)あり。相傳ふ、賴朝卿、平家追討の時、御臺所政子(みたいところまさこ)の願にて、大庭(をほば)の平太景義(かげよし)を奉行として、社前の東西に池を掘(ほら)しむ。池中の東に四島、西に四島、合(あはせ)て八島を、東方よりこれを滅(ほろほ)すと祝(しく)す。東に三島を殘す。三は産(さん)なり。西に四島を置(をく)。四は死(し)なりと云(いふこころ)なりけるとぞ。
太鼓橋(赤橋)
三ノ鳥居を抜けるとすぐにみえてくる反橋。子供の頃はこの橋を遊び感覚でよく通ったものですが、現在は通行できなくなっています。その昔は「赤橋(あかはし)」と呼ばれており、この近くに住んだ北条氏の庶流は赤橋氏と呼ばれました。
『新編鎌倉志』の「赤橋」記述
赤橋(あかはし)
本社へ行反橋(ゆくそりはし)なり。五間に三間あり。昔(むかし)より是を赤橋(あかはし)と云ふ。【東鑑】に往々(わうわう)見へたり。
舞殿
かつて鶴岡八幡宮には大きな廻廊があり、源義経の謀反により捕らえられた義経の妾、静御前がここで舞を披露した歴史は有名です。舞殿はその廻廊跡に建てられており、毎年春には歴史にちなみ「静の舞」が行われ、多くの見物客が訪れます。下拝殿とも呼ばれます。
『新編鎌倉志』の「舞殿」記述
舞殿(まひとの)
上(かみ)の地へ登る石階(いしのきざはし)の下にあり。三間に二間あり。
若宮(下宮)
若宮(下宮)は本宮へと至る長い石段の下、右手にあります。『新編鎌倉志』には若宮大権現とも記述があり、本宮(上宮)に対して若宮(下宮)と呼ばれ、鶴岡八幡宮の美しい上下二院を形成しています。本宮に祀られた応神天皇の子、仁徳天皇の他三柱の神様が祀られています。若宮の前にはビャクシンの大木があり、市の天然記念物に指定されています。
鶴岡八幡宮創建当時の1181年(治承5年)に建てられました。松の柱と萱の軒を用いた建物であり、現在の東京、武州浅草の大工が用いられたと記録があります。現在の建物は江戸初期の1624年(寛永元年)に建てられ、国の重要文化財に指定されています。権現造、屋根は銅板、本殿5間流造です。
『新編鎌倉志』の「若宮(下宮)」記述
下宮(しものみや)
上の地の石(いし)の階(きさはし)を下り、東の方なり。額(がく)に若宮大權現とあり。靑蓮院尊純法親王の筆也。是を若宮(わかみや)と申す。仁德天皇なり。『東鑑』に、治承五年五月十三日、鶴岡若宮の營作の事あり。大工は、武州浅草(あさくさ)字は郷司(がうし)と云者也。當宮は、去年假(かり)に建立の号有といへども、楚忽(そこつ)の間た、先つ松の柱(はしら)、萱(かや)の軒(のき)を用(もちひ)らる。仍て花構の儀をなし、專ら神威を賁(かざ)らる。同く八月十五日、鶴岡若宮遷宮とあり『鶴岡八幡宮記』に云、下(しも)の宮(みや)四所とは東は二所、久禮(くれ)・宇禮(うれ)也。仁德の御妹(いもと)なり。中は若宮、則ち仁德なり。西は若殿(わかとの)、是も仁德の御妹(いもと)と云ふ。本殿は五間に三間、幣殿(へいてん)は四間に三間、拜殿は三間に二間、玉垣(たまかき)は北(きた)の方十間、東西八間づゝあり。玉垣(たまかき)の内に梛樹(なぎのき)あり。『寛文年中修復記』に云、此の梛樹(なきのき)、切取(きりとる)べき歟の事、凡慮を以てはかりがたきゆへ、寶前にて鬮(みくし)を取る。切取べからずと治定して、今尚あり。棟札(むなふだ)、上(かみ)の宮(みや)と同じ。但し(しも)下(しも)の宮には、鶴岡八幡若宮とあり。
大石段
本宮(上宮)へと至る立派な階段は大石段といいます。鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで鎌倉を広く望むことができます。冬など空気が澄んでいると伊豆大島を望むこともできます。源頼家の遺児 公暁はこの石段の傍らにあった大銀杏に隠れ、鎌倉幕府第3代将軍 源実朝を暗殺しました。
『新編鎌倉志』の「大石段」記述
石階(いしのきざはし)
此石の階を登(のぼり)、北に向て本社へ行(ゆく)也。是より上(うへ)を上(かみ)の地と云也。本社あり。是より下(しも)を下(しも)の地と云。若宮(わかみや)あり。此の石の階の下(した)、東の方に梛(なき)の樹(き)あり。西の方に銀杏(いちやう)の樹(き)あり。【東鑑】に、承久元年正月二十七日、今日將軍家〔實朝(さねとも)〕右大臣右拜賀の爲(ため)、鶴岡八幡宮に御參(をんまいり)、酉の刻也。夜陰に及て、神拜の事終て、漸く退出せしめ給ふ處に、當宮別當阿闍梨公曉(くげう)、石階の際(きは)に窺(うかかひ)來り。劔(つるぎ)を取り、丞相(じやうしやう)を奉侵(侵(をか)し奉る)とあり。相ひ傳ふ、公曉(くげう)、此銀杏樹(いちやうのき)の下(した)に、女服を著て隠(かく)カクれ居(い)て、實朝(さねとも)を弑(ころ)すとなり。
本宮(上宮)
威厳のある姿が印象的な鶴岡八幡宮の中心となる建物。應神天皇、比賣神、神功皇后を祀っており、若宮(下宮)とともに国の重要文化財に指定されています。現在の建物は江戸時代の1828年(文政11年)に建てられ、権現造、銅瓦、本殿9間流造という規模・様式です。
『新編鎌倉志』の「本宮(上宮)」記述
上宮(かみのみや)
此即ち上(かみ)の地、本社應神天皇なり。此の地を元松岡(もとまつかをか)と云。上(うへ)の山を大臣(たいしん)山と云。〔鶴岡八幡宮記〕に、上宮(かみのみや)三所は、中は應神天皇、東は氣長足妃(をきなかたらしめ)、應神の御母(はヽ)神功皇后也。西は妃(ひめ)大神、應神の御姊(あね)也。然(しかれ)ば應神の御父(ちヽ)仲哀天皇は、何れの處に坐し給へる乎(や)。曰く、神宮寺に本社垂跡合體にて坐し給ふ也。上の宮(みや)三所は、阿弥陀の三尊の義に依(よる)也。仲哀天皇は、本地は藥師なる故に奉除之也(之を除〔き〕奉る也)とあり。本殿は、竪(たて)九間、横(よこ)三間、幣殿(へいてん)は四間に三間、拜殿(でん)は、四間に二間なり。
丸山稲荷社
本宮(上宮)の左手にあり、室町時代の応永5年(1398年)に建てられた鶴岡八幡宮最古の建築物(国指定重要文化財)。1間流造、銅板、舟肘木、小組格天井となっています。源頼朝が由比ヶ浜にあった由比若宮を現在の地に移し、鶴岡八幡宮としたわけですが、その時、現在本宮(上宮)のある地にはこの丸山稲荷社があったそうです。
『新編鎌倉志』の「丸山稲荷社」記述
稻荷社(いなりのやしろ)
本社の西の方、愛染堂の西の山にあり。二間に一間あり。井垣(いがき)三間四方也。此山を丸山(まるやま)と云なり。本社の地に、初(はじめ)は稻荷(いなり)の社(やしろ)ありしを、建久年中、賴朝卿、稻荷(いなり)の社を此山に移して、今の本社を剏建(さうけん)せらる。爾後(しかしよりのち)頽破す。今の稻荷(いなり)社、本(もと)はニ王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥(すいぐは)の人の木像(もくざう)とを安じ、酒(さけ)の宮(みや)と號す。近き比大工遠江(とをとをみ)と云者有。甚た酒(さけ)を好(このん)で此(これ)を寄進す。寛文年中の御再興の時、其體(てい)神道・佛道に曾(かつ)て無(なき)事(こと)也とて、酒(さけ)の宮(みや)醉臥の像を取捨(とりすて)て、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山(まるやま)に社を立(た)て、舊(ふるき)に依て松岡(まつかをか)の稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神の本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安する也。
白旗神社
源頼朝を祭神として関東、東北、中部地方などに70社程ある白幡神社。この鶴岡八幡宮の白旗神社は、大本山ともいうべき存在でしょうか。この白旗神社には源頼朝だけでなく実朝も祀られています。朱色が多い中にあって黒塗りの社がとても記憶に残ります。「鎌倉」の全ては源頼朝といってもいいわけですから、遥拝必須の場所といえるでしょう。
『新編鎌倉志』の「白旗神社」記述
賴朝社(よりともやしろ)
本社西の方にあり。三間に二間あり。玉垣(たまかき)、東西四間、南北六間あり。白旗(しらはた)明神と号す。社内に賴朝の木像、左に住吉(すみよし)。右に聖天(しやふてん)を安す。賴家(よりいへ)創造也と云傳ふ。寛文戊申(つちのへさる)御再興以後、毎年正月十三日、御供(ごく)を獻(けん)じ、樂(がく)を奏(そう)し神事あり。
廃仏毀釈の悲しい歴史
頼朝が造った鶴岡八幡宮寺は現在とは違う神仏習合の神宮寺
鶴岡八幡宮を知る上で忘れてはならないことは、源頼朝が創建した鶴岡八幡宮は神仏双方が祀られた場所であったことです。現在のように国家神道のみの神社となったのは明治維新の廃仏毀釈によるものです。それまでは20を超える塔頭があり、源頼朝は法華経を始め仏を篤く信奉し『吾妻鏡』には幾度も法華経や一切経などの読誦が鶴岡八幡宮において行われた記録が残ります。
頼朝は挙兵の1か月程前、1180年(治承4年)7月5日配流時代に欠かさなかったという「法華経読経800部を納め平清盛一族打倒の加護を仏前に願う」と記されています。
境内の様子も悪しき廃仏毀釈の前後では全く異なります。明治3年5月、鶴岡八幡宮神主は大塔をはじめ、仏堂、仏像、仏具などはことごとく取り除いたと県庁に報告しています。
源頼朝がつくった本来の鶴岡八幡宮には以下のように仏教の堂宇がありました。
中の島に弁財天、源平池を過ぎてすぐ中央に二天門、門を入って左手に護摩堂、奥に経蔵があり、右に大塔、鐘楼、薬師堂(現在の白旗神社の場所)、境内の源平池を過ぎたあたりには、大塔(頼朝の創建当時は五重塔)、上宮桜門左手には愛染堂、右手に六角堂があり、鶴岡八幡宮の背後には25の坊がありました。
この絵図は享保17年(1732年)のもの。治承4年(1180年)の創建以来、焼失などにより幾度も再建されていますが、頼朝が創建した当時の配置や堂宇が再現された最後期の徳川秀忠による寛永元年(1624年)からの造営の姿を残しているといわれる絵図です。仁王門、大塔、薬師堂など仏教の諸堂が描かれています。
下の写真は元治元年(1864年)11月に撮影された鶴岡八幡宮境内の大塔。鎌倉を訪れたイギリス人ペアトによる写真(厚木市立郷土資料館所蔵)。左は薬師堂。
鶴岡八幡宮にあった仏像や経典のいくつかは現存しています。仁王像は寿福寺、源頼朝像は東京国立博物館、愛染明王像は五島美術館などです。
時代の流れとして致し方ないことではありますが、現在の鶴岡八幡宮は、明治の廃仏毀釈によって源頼朝が創建したものとは異なった姿となっているのです。江ノ島も同じように、金亀山与願寺が江島神社となっています(江ノ島の廃仏毀釈)。神仏分離は明治政府が決め、廃仏毀釈は日本全国で激しく起こったことですから、鶴岡八幡宮だけが特別ということは決してありません。地元鎌倉の誇り、鶴岡八幡宮について知りたいという崇敬の気持ちから歴史を辿ってました。
明治の廃仏毀釈によって破壊された鶴岡八幡宮寺の仏教関連施設
仏教施設を破壊した廃仏毀釈については、上記にみてきましたが、ここではさらに、元祖鎌倉ガイドともいえる水戸光圀編纂の『新編鎌倉志』から、明治維新、神仏分離、廃仏毀釈という流れによって破壊された鶴岡八幡宮の建築物を中心に現在存在しないものをひろってみます。源頼朝が創成した「鎌倉」そして「鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)」の姿に近づきたいということです。主に廃物希釈により現在の姿がそれと異なっているわけですから。上記の地図とあわせてご確認ください。形式が変わったり、廃物希釈と関係なく単になくなったものも含まれます。
仁王門(にわうもん)
三間に二間あり。額(がく)に、鶴岡山(くわくかうさん)とあり、曼殊院良恕法親王の筆なり。兩傍に二王の像あり。昔は八足(やつあし)の門(もん)有ける歟、『東鑑』に正治三年八月十一日、大風に、鶴が岡宮寺(みやてら)の八足(やつあし)の門、顚倒の事あり。
樓門(ろうもん)
額(がく)に、八幡宮寺(はちまんぐうじ)とあり。良恕法親王の筆なり。樓門、三間に二間あり。回廊(くはいらう)は、樓門に續(つつ)き回(めく)らす。北の方は十四間、東西十六間づゝ、南面にて樓門の東西四間づゝあり。前に銅燈臺(どうとうたい)二樹兩傍にあり。左の方にある燈臺の銘に、延慶三年庚戌七月、願主滋野景義(しけのかげよし)、勸進藤原の行安(ゆきやす)とあり。右にある燈臺には、奉寄進鎌倉八幡宮殿燈籠(寄進し奉る鎌倉八幡宮殿の燈籠)、 向井(むかい)將監忠勝(たたかつ)、息子兵部鶴千代(つるちよ)、爲傳武運於長久、保壽算於遠大、而三身安樂、同苗繁茂故也。仍ち銘に曰、燈籠玉成、明德見新、天命不昧、日月星辰、、咨保福來瑧、寛文龍集戊辰、十一月如意珠日、相州三浦紫陽山白室叟書(書す)、勸進沙門莊嚴院法印賢融、大工江州太田佐兵衞藤原友定とあり。
座不冷壇所(ざさまさずのたんしよ)
回廊(くはいらう)の東方にあり。天下安全の御祈願所なり。御正體(みしやうたい)と號して、壇(だん)を構(かま)へて、鏡(かヾみ)に弥陀の像を打付たる物を厨子(づし)に入、鎖(ぢやう)をおろして有。又立像の十一面觀音、坐像の金銅の藥師も厨子に入(いる)。十二坊、輪番に一晝夜つゝ相勤む。最勝王・大般若・仁王等の經を更(かは)る更る讀誦す。鈴(れい)の音(をと)常に社外に響(ひヽ)く。是を座不冷(ざさまさず)の行法と名く。平生勤め行て坐をさまさずと云義なり。鎌倉の俗語には、ざすと云也。龜山帝の時、御夢想に依て、御祈禱の綸旨院宣を成し下さる。弘安八年三月十七日に、始て勤め行ひしより、今に懈怠なしと云なり。按ずるに。『東鑑』に、治承四年十月十六日、賴朝(よりとも)の御願として、鶴が岡の宮(みや)にて長日勤行を始めらる。所謂(謂は所る)法華・仁王・最勝王等の鎭護國家の三部の妙典、其の外大般若・觀音經・藥師經・壽命經等也とあり。昔(むかし)より有事と見へたり。毎日の勤行を著到に記するなり。昔し賴朝卿、供僧の一臈を以て、始て執行職に補せられしより以來、祭祠・勤行・法例・著到等、皆執行の事也。
竈殿(かまどの)
賴朝社(よりともやしろ)の西の方にあり。五間に三間あり。『八幡宮記』に、八幡の姨(をは)寶滿菩薩を安ずとあり。俗に、おみるめとも申すと也。此の所ろ大御供所なり。毎年正月三箇日、四月三日の御祭禮五々三の御供、御寶殿に獻(たてまつ)る。樂ガ(がく)を奏するなり。
愛染堂(あいぜんだう)
賴朝社(やしろ)の向(むか)ふにあり。堂三間四方あり。愛染像は、運慶作。又堂内に地藏あり。二位尼(にいのあま)政子の本尊と云傳ふ。たしかならず。供僧の云く、赤橋(あかはし)東方に昔し地藏堂あり。礎石今尚存す。此堂の本尊を二位の尼(あま)の本尊と云ふ。今は在所不知(知れず)と。
影向石(やうがういし)
相ひ傳ふ、正應二年二月四日、大風雨して、此石涌出す。供僧圓頓坊の夢に、座不冷(ささまさす)の行法を聽聞のために、龍神の來る座石也と。古(いにしへ)は一つ有(あり)つ。今は二つ有。いづれを真偽(しんき)としがたし。
六角堂
回廊(くはいらう)の外東の方、座不冷(ざさまさず)の壇の前の庭にあり。六十六部の聖(ひじり)經を納る堂なり。
高良(かうら)大臣社
上(かみ)の地の石の階を下り、左の方、梛(なぎ)の樹(き)の東にあり。【八幡宮記】に云、又玉垂(たまたれ)の大神と號す。應神の臣也。
三島(みしま)・熱田(あつた)・三輪(みわ)・住吉(すみよし)の社
高良(かうら)の東にあり。四神同社なり。『東鑑』に、文治六年四月二日、鶴岡の末社三島(みしま)の社(やしろ)の祭(まつり)とあり。又云、元曆元年七月廿日、鶴岡若宮の傍(かたはら)に於て、社壇を新造し、熱田(あつた)大明神を勸請せらると。又文治五年七月十日。鶴岡の末社熱田(あつた)社の祭(まつり)と有。
天照太神社
上(かみ)の宮の石階を下り。右の方、銀杏(いちやう)の樹の西の方に有。
松童(まつだう)・天神・源太夫(げんたいふ)・夷(えひす)三郎の社
天照大神の西にあり。四神同社也。松童(まつどう)は、『八幡宮記』に、八幡の牛飼(うしかひ)也とあり。源太夫(げんたいふ)は八幡の車牛(くるまうし)也とあり。或は元大武(げんたいふ)と書(か)くなり。『東鑑』に建長五年八月十四日、始(はしめ)て鶴岡西の門の脇(わき)に、三郎大明神を勸請し奉(たてまつ)らるとあり。宗尊將軍の時なり。
輪藏(りんざう)
銀杏樹(いちやうのき)の西の方にあり。五間四方なり。一切經あり。實朝(さねとも)、朝鮮(ちやうせん)へ書を遣(つか)はし求(もと)めたる經と云傳ふ。按ずるに、『東鑑』に、建曆元年十月十九日、實朝將軍、永福寺に於て、宋本(そうほん)の一切經五千餘卷を供養せらるとあり。此宋本(そうほん)の經を轉傳して此の藏にをさめたるか。内に四天王を安ず。毘沙門は、渡海守護の爲(ため)に、朝鮮より載(のせ)來るとなり。『鶴岡社務次第』に、建久五年甲寅十一月十三日、一切經供奉〔不載『東鑑』(『東鑑』に載せず)〕の事あり。しかれば賴朝の時より、一切經供養の事は有しとみへたり。
護摩堂(ごまたう)
輪藏の前に有。五間に四間あり。五大尊は運慶作。大威德の乘(のり)たる牛(うし)の足(あし)、膝(ひざ)をかゞめたり。相ひ傳ふ、義經(よしつね)を調伏の時、膝(ひざ)を折(をり)たりと也。『鶴岡社務次第』に、尊勝護摩始(はしめ)行はる。建武元年三月二十三日。擬八大佛頂人數八人、元(もと)は十六人とあり。
藥師堂(やくしだう)
下宮(しものみや)の東の方にあり。五間に四間なり。藥師・十二神の木像あり。是を神宮寺と云ふ。『東鑑』に、承元二年四月廿五日、實朝將軍鶴岡の宮の傍(かたは)らに、始て神宮寺を建(たて)らる。同年十二月十二日造畢す。今日午(むま)の刻に、本尊藥師の像を安置し奉(たてまつ)らる。同月十七日、藥師の像開眼とあり。又建曆元年十一月十六日、尼御臺所(あまみたいところ)の御願として、金銅の藥師三尊〔三尺〕像を供養せらる。此本尊は、鶴岡神宮寺に安置せらるとあり。その像、今座不冷(ささまさず)の壇に金銅の藥師あり。是なるべしと云ふ。或人の云、是を神宮寺と云は訛(あやまり)なり。神宮寺とは、別當職の所居を云なりと。然れども『東鑑』に、已(すて)に是を神宮寺と有。又本社をも、『東鑑』には神宮寺と有なり。淸重(きよしけ)の舞に、神宮寺の松風(まつかせ)と有は、この藥師堂の前の松樹の事也。今古松樹あり。
塔(たふ)
若宮の前にあり。五間四面なり。五智の如來を安ず。『東鑑』に、文治五年三月十三日、鶴岡の八幡宮の傍(かたはら)に、此の間た塔婆を建(たて)らる。今日空輪(くりん)をあぐ。二品(にほん)〔賴朝〕監臨し給ふ。同く六月九日、御塔供養、導師は法橋觀性、願文は新藤の中納言兼光卿(かねみつけう)草す。堀河(ほりかは)の大納言忠親(たたちか)卿淸書すとあり。
鐘樓(しゆろう)
塔(たう)の東の方にあり。二間四方あり。鐘(かね)の大きさ徑(わたり)三尺五寸、厚(あつさ)三寸五分あり。銘(めい)あり。如左(左のごとし)。
北斗堂跡(ほくとのたうのあと)
今は滅(ほろび)たり。古跡不分明(分明ならず)。『東鑑』に、建保四年八月十九日、鶴岡の宮(みや)の傍に、別當定曉僧都、北斗堂(ほくとたう)を建立す。尼御臺所(あまみたいところ)、御入堂とあり。又相承院藏書の『鎌倉記』に、應永年中に再興の事みへたり。今はなし。
小別當(せうへつたう)
馬場(ばヾ)小路に居宅す。『社務職次第』に云、當社別當宮圓曉法眼、三井寺より御下向、御供(とも)申す肥前の法橋永契と申す坊官也。然る間、建久二年十一月日、別當宮圓曉御坊より、小別當の官を給り。社内の掃除奉行に定め置るゝ者也。其以後御供方(こくかたの)奉行也、別當の被官坊官の類也。
淨國院
以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、東顏(ひかしかは)より西顏(にしかは)まで、寺町(てらまち)をなす。建久二年に、賴朝卿(よりともけう)二十五の菩薩に形(かた)どり、院宣を奏し請て、供僧二十五坊を建立せらる。其後應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號を改(あらた)め院號とす。源成氏(しけうし)の代まで、廿五院有しと見へたり。『成氏年中行事』に載(のせたり)。永正の比より、漸漸(ぜんぜん)に衰(をとろ)へて、七院のみありしを、東照大神君、文禄二年に、十二院を再興し給(たまふ)と也。淨國院の開基は、『社務職次第』に云、初めは佛乘坊・忠尊、號大夫律師、山城の人也(なり)、法性寺禪定殿下忠通(ただみち)の猶子也。
我覺院
初は密乘坊・朝豪、号大納言僧都(大納言僧都と号す)。法性寺禪定殿下忠通(ただみち)の末子なり。
正覺院
初は千南坊・定曉、号三位法橋(三位法橋と号す)。平大納言時忠(ときただ)の一門なり。建保五年五月十一日寂す。此の院にどこも地藏と云(いふ)あり。智岸寺か谷(やつ)の條下に詳(つまひらか)也。
海光院
初は實藏坊、義慶、號武藏阿闍梨、平家の一門なり。寛喜元年八月廿日寂す。
増福院
初は寂靜坊、成慶、號辨律師、平家の一門なり。寶治元年正月九日寂す。
慧光院
初は文慧坊、永秀阿闍梨と云ふ。
香象院
初は善松坊、重衍、號丹後竪者、中納言通秀卿(みちひてきやう)の孫なり。
莊嚴院
初は林東坊、行耀、號山口法印、平家の一門なり。寛元元年七月十四日寂、八十五。
相承院
初は頓學坊、良嘉律師。平家の一門なり。寛喜三年十月七日に寂す。八十二。本尊は、正觀音也。『東鑑』に、治承四年八月廿四日。椙山(すきやま)敗亡の時、賴朝髻(もととり)の中の正觀音の像を取て、或巖窟(あるいわや)に安し奉(たてまつ)らる。土肥實平(とひさねひら)、其の御意(をんこころ)を問(とひ)奉るに、仰(をほせ)に云、首(くひ)を景親等(かけちから)に傳(つたふ)るの日(ひ)、此本尊を見ば、源氏の大將軍の所爲に非るの由(よし)、人定(ひとさため)て誹(そしり)を貽(のこす)べし。件(くだん)の尊像は、賴朝三歳の時、乳母(めのと)清水寺に參籠せしめ、嬰兒の將來を祈(いの)る事懇篤にして、二七箇日を歷(へ)て靈夢の告を蒙り、忽然として、二寸の銀(ぎん)の正觀音の像を得て歸敬し奉る所也。同年十二月廿五日、巖窟(いはや)に納(をさめ)らるゝ所の小像の正觀音、慧光坊の弟子閼伽桶(あかをけ)の中に安じ奉り、鎌倉に參著す。數日山中を搜(さが)し、彼巖窟(いわや)に遇て希有(けう)にして尋ね出し奉るの由(よし)申す。武衞合手(手を合せ)請取(うけとり)給ふとあり。今此の木像の頂(いた丶き)に納(をさめ)てあり。又押手(をして)の聖天(しやうてん)と云ふ。此(ここ)にあり。是は本叡山(もとえいざん)にあり。後一條帝の時、左京の大夫道雅(みちまさ)、伊勢の齋宮(いつきのみや)を戀(こふ)て、「今は只(たた)思ひ絶(たへ)なんとばかりを、人つてならていふよしもかな」と詠じて、且つ此の聖天に祈(いの)る。其の利生により、齋宮(いつきのみや)、男(をとこ)の家に通ひ給ふ。此事宮中に顯(あら)はれて、其の由を糺(た丶)し問(とふ)に、齋宮(いつきのみや)、我が心共(とも)なく夢(ゆめ)の如(ことく)にさそわれ行(ゆく)となん。羣の臣謀(はかつ)て、齋の宮の手(て)に墨(すみ)を付(つけ)て行(ゆき)、彼の門(もん)に押(をさ)しむ。歸(かえり)て後(のち)人をして見せしむるに、路の中の門々(もんもん)に皆手形(てかた)ありて、何れをそれと知(しり)がたし。是れ聖天の所爲也。佛力とは云(いヽ)ながら、齋宮をかくせし罪(つみ)なりとて、鎌倉に捨(すて)られしを、此(ここ)に安ずとなり。故に押手(をして)の聖天と云。縁起に詳(つまひらか)なり。此の聖天は、慈覺大師異國より將來の像也と云ふ。
安樂院
初は安樂坊重慶法眼、平家の一門なり。
等覺院
初は南禪坊良智、號肥前律師(肥前の律師と號す)。本三位平重衡の息也。弘法自作の木像あり。鏁(くさり)大師と云也。鏁(くさり)を以て膝(ひさ)を屈伸するやうに作る故に名く。安置する堂を、蓮華定院と云ふ。勅書を板に書寫して挂(かけ)たり。御祈禱すべきの勅意、執達左少辨俊國(としくに)、應永二十七年十二月十三日とあり。不動の畫像一幅あり。弘法の筆也。弘法自畫の像一幅、兩界曼荼羅二幅、西山(にしやま)の宮道覺法親王の筆なり〔靑蓮院殿、後鳥羽皇子なり。〕辨才天像一軀、十五童子あり。三浦荒(みうらのあら)二郎、若江島(わかえのしま)に安置する本尊と云ふ。等覺院の後(うしろ)に、大(ををき)なる谷(やつ)あり。八正寺と云て、昔八幡の大別當僧正の舊跡なり。『東鑑』に、壽永元年九月廿六日、鶴岡の西の麓(ふもと)を點(てん)じて、宮寺の別當坊を建(たて)らるとあり。此所ならん。
最勝院
初は靜慮坊、良祐竪者なり。
新編鎌倉志(江戸時代につくられた元祖鎌倉ガイド)の鶴岡八幡宮図
「仁王門」、「薬師堂」「愛染堂」「輪蔵」「六角堂」など、頼朝創建以来の貴重な仏教関連施設が並ぶ江戸時代の鶴岡八幡宮。左上には最盛期に20を超えたという子院もみられます。返す返すも廃仏毀釈によって破壊されたこれらの施設や宝物に思い致さずにはいられません。
浜の大鳥居のすぐ近くまで由比ヶ浜が広がっていたことがわかります。埋め立てられ、無粋な近代建築が並ぶ現在と違い、さぞ雄大で美しい景色だったことでしょう。
田山花袋 著『一日の行楽』
大正7年(1918年)に発行された『一日の行楽』という旅行本に、鶴岡八幡宮が登場します。『蒲団』で名高い自然主義文学の巨匠であり、紀行文の名作も残す田山花袋によるものです。『一日の行楽』は東京から一日で行ける範囲の名所を名文により紹介した大変素晴らしい作品です。これから訪れる人への案内にも気が配られていますから、昔の人はこういう案内本を読んで現地を歩いたのでしょうか。比べるのも失礼ながら、現在の鎌倉関連の観光本とは比較にならない逞しさです。昔の人が羨ましくなります。「八幡の楼門の前から、遥かに由比ヶ浜の波の音を聞いた感じはわるくない。」という一文だけで、当時の静けさや空気が伝わってきます。以下、鶴岡八幡宮の部分を抜粋します。
「鎌倉で、先ず停車場を下りる。一番先に、鶴岡八幡に行く。八幡の境内は瀟洒で、掃除が行き届いて気持ちが好い。例の静御前の舞を奏したあとなどを見て、長い石磴(せきとう)を登ると、左に、僧公暁の実朝を殺した大銀杏がある。無論そのひこばえであるが、それでもかなりに大きい古い樹だ。八幡の楼門の前から、遥かに由比ヶ浜の波の音を聞いた感じはわるくない。それに鎌倉の四面を囲んだ丘陵の上に、松が並んで生えているさまも、人の絵のやうな感じを與(あた)えた。この下の一帯の低地、若宮大路を挟んだ左右の地は、頼朝時代に覇府の行政府や諸大名の邸などがあったところで、沿革図を見ると、その当時のさまが一々指摘點(=指点)される。で、八幡を去って、師範学校の傍を通って、頼朝の邸の址というのを見て、今度は丘近く頼朝の墓のあるところに行く。」
※読みやすくするため旧字体、旧仮名遣いなどを一部、現代文に直しています。原文は次のリンク先よりご確認下さい。→http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959134