衣笠城址

目 次

衣笠城址

(きぬがさじょうし)

三浦一族の居城

平安以来、三浦半島と安房に勢力を張った三浦一族の居城が衣笠城です。源頼朝挙兵に源氏累代の家人として即座に応じた三浦一族は、酒匂川増水により石橋山合戦に間に合わず、衣笠城に籠城。平氏の大軍に囲まれます。

エリア横須賀
住 所横須賀市衣笠町
アクセス京急「横須賀中央駅」より長井方面行バス「三崎口駅行」「長井行」他(約20分)「衣笠城址」バス停下車、徒歩20分、またはJR衣笠駅より徒歩約25分

横須賀風物百選「衣笠城址」の標。

横須賀風物百選「衣笠城址」の標。

平安以来、三浦半島と安房に勢力を張った三浦一族の居城が衣笠城です。源頼朝挙兵に源氏累代の家人として即座に応じた三浦一族は、酒匂川増水により石橋山合戦に間に合わず、衣笠城に籠城。平氏の大軍に囲まれます。

神奈川県横須賀市衣笠町29 衣笠城址

三浦半島を抑えた三浦一族の海城、衣笠城

衣笠城は現在の横須賀市、逗子市、三浦市、鎌倉市の一部を含む三浦郡に勢力を張った三浦一族の本拠城です。ちょうど三浦半島の中程に位置し、その昔、都から常総へと至った東海道の要衝の地にあります。当時の東海道は相模湾沿いを下り、現在の葉山町鐙摺や一色あたりから内陸へと入り、三浦半島を横切って現在の走水、田浦、久里浜あたりから船に乗り、房総半島の金谷、湊あたりに上陸したといわれています。

現在の衣笠城周辺は無様なコンクリートと近代建築に覆われてまったく海城のイメージがもてませんが、当時は現在ほど埋め立ての弊害はなく、また平作川が近くまで入り込んでおり、衣笠城は海と山の双方を抑えた居城でした。『源平盛衰記』には「三浦一族が衣笠城の門から出撃し、船に乗った」というようなくだりがあり、往時の姿を伝えています。

衣笠城は海と山、自然の地形を巧みに利用した山城であり、周囲には佐原城、怒田城、大矢部城、小矢部城、平作城などの支城を配していました。上記のように水軍の拠点としても機能していたことから、攻守に優れた要害であったと想像されます。三浦一族の始祖とされる平太夫為通が康平年間(1058年〜1065年)に築城されました。源頼朝挙兵、鎌倉幕府成立に活躍し勢力を拡大した三浦一族の発展とともに栄えたものの、為通から数えて7代目、三浦泰村の時代に北条氏との勢力争いに破れたことから、衣笠城も廃城となってしまったようです。

対岸、房総半島の雄族、上総介や千葉、安西などとの三浦一族の緊密な関係は婚姻関係や歴史書から知ることができますが、それらを可能にしていたのは海路を通じての日常的な行き来であったはずであり、そうしたことからも三浦一族の本拠城たる衣笠城が海城として機能していたことが伺われます。

横須賀市内の公道沿いに設置されている案内板にあった、衣笠城古図。

横須賀市内の公道沿いに設置されている案内板にあった、衣笠城古図。

源氏累代の家人、三浦一族の居城

1180年(治承4年)8月17日、源頼朝は配流先の伊豆において平氏打倒の兵を挙げます。衣笠城を本拠地として三浦半島一帯と安房に勢力をはっていた三浦義明は、頼朝挙兵を聞いて即座に子の三浦義澄、孫の和田義盛ら300余騎を加勢に向かわせます。

三浦氏は桓武平氏の末裔であり、源頼朝から遡ること4代、源頼義とともに前九年の役を戦った三浦為通が頼義から三浦の地を与えられたことから三浦を名乗り、それ以来源氏累代の家臣となりました。特に、三浦義明源義朝との繋がりは深く、一説に義朝は義明の娘を後に言う側室としたといわれるほどです。

源満仲以来、摂関政治の発展とともにとともに勢力を拡大してきた源氏も、摂関政治の敗退、院政の興隆とともに平氏にその座を譲ることとなります。その時期はちょうど源為義、義朝(頼朝の父)時代にあたり、源頼朝挙兵時の当主、三浦義明は頼朝の父義朝や祖父為義が戦った保元・平治の乱を義朝とともに戦い、平治の乱に敗れ頼朝が伊豆に配流となってからも頼朝を訪れていました。

頼朝の加勢にむかった三浦勢は増水した酒匂川で足止めされます。その間に頼朝は石橋山の合戦に敗れてしまい箱根山中に隠れたあと真鶴から舟で安房へと逃れます。この時舟出した浜は、「源頼朝船出の浜」として、漕ぎ着いた安房の浜は「源頼朝上陸の地」として現在も史跡となっています。

石橋山の敗戦を聞いた三浦勢は衣笠城に引き返す途中、鎌倉の由比ケ浜において平氏方であった畠山重忠の軍勢と遭遇し小坪合戦となります。これは小競り合いに終わり三浦勢は衣笠城に引き上げます。

この後8月26日に平氏の大軍が衣笠城に押し寄せます。平氏方3,000騎に対する三浦勢は400騎余り。東の木戸口大手を三浦義澄義連が、西の木戸は和田義盛と金田頼次、中陣は長江義景と大多和義久が守りました。

三浦義明の壮絶な死とその後の三浦一族の繁栄

三浦勢はよく守りましたが敗戦を悟った当主三浦義明は夜になり一族郎党を城から逃し、頼朝のもとへとむかわせます。その際、義明は家臣たちにこうつたえました。嫡男義澄以下、一族郎党は涙を流してとりみだしたものの、命に従ったといいます。

「源氏累代の家人として、幸いにも貴種再興にめぐりあうことができた。こんなに喜ばしいことがあろうか。生きながらえてすでに80有余年。これから先は幾ばくもない。この上は老いた命を武衛(源頼朝)に捧げ、城に残り手柄としたい。汝らはすぐに退却し、頼朝の安否をおたずねするように。私は一人この城に残り、軍勢が多くいるように見せてやろう」。

後年になり源頼朝はこの三浦義明を忠臣として讃え、菩提を弔う寺を建立するなどしました。合戦のなかった江戸時代の武士と違いこの時代の武士たちは、とてもドライだったといいます。生き残るためには仕方のないことだったでしょう。

そうした中、頼朝が伊豆配流となっていた源氏衰退期においてもその恩顧を忘れず、挙兵には即座に応じ、一身を捧げた三浦義明は類い稀な存在だったと考えられます。

『吾妻鏡』にはこうあります。1197年(建久8年)8月27日「頼朝は三浦義明のために自ら建立した満昌寺に参拝。御家人達にこう命じた。「義明は忠功無二の旧臣であり今日墓前に立つと生前の姿を思い出す。御霊明神として敬うように」。

三浦義明が壮絶な死を遂げた後、三浦一族は源頼朝のもとで功を挙げ、鎌倉幕府の一大勢力となります。それにともない衣笠城も改築され、大敵であった北条氏との合戦を想定したものとなっていきます。

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衣笠城址は大善寺の裏山にあり、衣笠山公園、大楠山とつながりハイキングコースとなっています。また、衣笠城址の周辺には三浦一族ゆかりの史跡がいくつもあります。詳しくはこちらをご覧ください。

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